この話は、浄土真宗の開祖親鸞が『歎異抄』で唱えた悪人正機説を思い起こさせます。
『歎異抄』には、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とあります。
これは、「善人(善行によって往生しようとする者)は自己の能力で悟りを開けるが、煩悩に囚われた悪人(善悪の判断もつかない凡人)は仏の救済に頼るしかないのだから、悪人こそが阿弥陀仏に救われる対象である」という逆転の発想です。
また、新約聖書には、『マタイによる福音書』5章の「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」や、『ルカによる福音書』6章の「汝の敵を愛せ」などの言葉があります。
これらの教えも、同じような逆転の発想と言えます。
新約聖書から遡ること2000年ほど前に、古代バビロニアの王ハムラビによって制定されたハムラビ法典には、「目には目を、歯には歯を」とあります。普通の感覚からすれば、ハムラビ法典のほうが常識的な判断だと思えるのではないでしょうか。
「発想の転換」が歴史を動かす
しかしながら、浄土真宗にせよキリスト教にせよ、それまでの思考の枠組みを根底から覆す逆転の発想を提示した当時の新興宗教が、その後大きな飛躍を遂げることになったのです。
このように、カントの「コペルニクス的転回」は、その後のヘーゲルの弁証法における「止揚(アウフヘーベン)」と同じように、私たちを取り巻く閉塞感をブレークスルーするうえでの重要な手掛かりとなったのです。
私たちを捉えている思考の枠組みを一回ずらしてみる、外してみる、そして新たな地平線の上で眺めてみるということです。
こうした発想の転換については、もう一度機会を改めて議論したいと思います。
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