「本能寺の変」直前!家康と信長の距離感の変化 駿河をもらった家康、その後の2人のやりとり

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浜松城公園(写真: 内蔵助 / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は武田勝頼死後から本能寺の変に至るまでの、信長と家康の関係の変化を分析する。

天正10年(1582)3月11日、甲斐国の武田勝頼は、織田信長や徳川家康に攻められ、追い詰められて自刃する。

『三河物語』には、主(勝頼)を見捨てて逃げる者(跡部尾張守)と、最後まで主君に尽くす者(土屋惣蔵)の姿が描かれている。

逃げようとする跡部は、土屋に見つかり討たれてしまう。落馬した跡部の首は、ほかの者がとったようだ。一方で土屋は次々と矢を射ち敵を倒し、勝頼とその子・信勝の介錯をしてから、自らも腹を十文字に切り、息絶えたという。

『三河物語』は、土屋の忠義を「昔も今も稀である」と称賛する者が多かったと記す。『信長公記』にも土屋の行動は記されており「比べるもののない活躍だった」とする。

信長の武田勝頼の評価

武田勝頼の首は信長に進上された。『信長公記』にはそのときの信長の言葉は書かれていないが、『三河物語』にはこう記されている。

「日本にまたとない武人であったが、運がお尽きになり、こうなられたことよ」

ここから、信長は勝頼の武勇を認め、評価していたことがわかる。

3月29日、武田氏の旧領が、信長から諸将に割り当てられた。甲斐国は河尻秀隆に、信濃国の高井・水内・更科・埴科四郡は森長可(もり・ながよし)に、上野国は滝川一益に、そして駿河国は徳川家康にそれぞれ与えられることになった。

家康はこれにより、三河・遠江・駿河の三国を領有することになる。この論功行賞を見ても、信長と家康の関係は、同盟関係というよりは、主従関係に近いことがわかるだろう。

このときには、家康は直接、信長に宛てて書状を出すことができなくなっていったとされ、取次の近臣(西尾吉次)を介して、連絡を取り合う仲になっていた。信長から家康への書状にしても、かつてのような対等で、敬意を表すものとは異なる、下位者に向けての文言となり、立場の違いは歴然となっている。

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