「本能寺の変」直前!家康と信長の距離感の変化 駿河をもらった家康、その後の2人のやりとり
『信長公記』には「光秀は、京都・堺において珍物をととのえ、大変素晴らしいおもてなしをした。それは15日から17日まで3日にわたった」と記されている。そこには、俗書に見えるような、明智光秀の不手際(家康に出す魚を腐らせて信長が怒り、饗応役を解任)は書かれていない。
明智光秀は5月17日には、安土から坂本城に戻る。中国地方へ出陣する準備のためだ。当時、織田の部将・羽柴秀吉は、備中国(岡山県岡山市)高松城に攻め寄せ、同城を水攻めにしていた。高松城を守るのは、毛利氏に仕える清水宗治。高松城救援のため、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景は軍勢を率いて出陣。秀吉軍と対峙する。
この状況を見た信長は「自ら出兵し、中国の有力大名を討ち、続いて九州まで平定してしまおう」と考えたという(『信長公記』)。そのうえで、明智光秀らに先陣として、出動するよう命じたのだ。安土における家康接待は、戦を前にした信長の束の間の休息といってよいだろう。
5月19日、安土城下の惣見寺で、信長は幸若八郎九郎大夫に舞を舞わせた。翌日には、丹波猿楽の梅若大夫に能を演じさせ、観覧する。
信長は家康に対する思いやりをみせる
その桟敷には、近衛前久・信長・家康・梅雪らが入った。信長の小姓衆や馬回り、年寄衆、そして家康の家臣も陪席を許される。同日の能は「家康が召し連れてきた人々に見せて、道中の辛労を慰める」ために演じられた。信長の家康に対する思いやりである。
最初に舞われた舞は上出来だったようで、信長の機嫌はよかったが、肝心の能は不出来で、演者の梅若大夫は信長にたいそう叱られたという。
鮨屋においても大将が弟子を叱り、客が気まずい思いをすることがあるようだが、家康もそれと似た気まずさを感じたのかもしれない。
不出来な能を見た信長は、その場を盛り上げるため、幸若八郎九郎大夫を楽屋から呼び寄せ「和田酒盛」という舞を舞わせる。
前日同様、優れた舞であったので、信長の機嫌も直ったようだ。幸若には森蘭丸が使者となり黄金10枚が与えられた。梅若大夫には褒美を与えようかどうか、信長は迷ったそうだが、黄金の出し惜しみをしたと世間から思われるのもどうかと考え、梅若大夫にも黄金10枚が下された。
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