「本能寺の変」直前!家康と信長の距離感の変化 駿河をもらった家康、その後の2人のやりとり

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4月10日、信長は安土に帰るため、甲府を発つ。その途中には、駿河国を通るのだが、家康は信長のために、茶屋や厩、立派なご座所を設け、信長をもてなす。それは「家康公のお世話ぶりは大変なものであった」(『信長公記』)と記されるほどのものだった。

富士の裾野、大宮、府中、掛川などに茶屋は建てられ、信長は歓待された。信長からも家康に脇差や馬を贈っている(家康の家臣にも、兵糧米8000俵を分配したという)。

浜松では、今切の渡において、家康が美しく飾った御座船を用意し、船中で、信長に一献差し上げた。

浜名の橋や今切の由来、舟方衆の生活を、家康の臣・渡辺弥一郎が詳しく説明すると、信長は興味深く聞き入っていたようだ。説明が終わると、信長から渡辺に黄金が与えられた。

大企業の社長を接待するかのような家康

このときの家康の行動を見ていると、大きな仕事を与えてくれた大企業の社長(信長)を必死に接待する下請企業の社長を彷彿とさせる。

なお『三河物語』には、信長が家康に駿河国を与えたことは記されているが、家康が信長に贅を尽くして歓待したことは書かれていない。

4月21日、信長は安土に到着した。しばらくして、家康と武田旧臣・穴山梅雪は、安土を訪問することになる。家康にとっては駿河をもらったお礼、梅雪にとっては領土を安堵してくれたお礼のためである。

信長は家康がやって来ると聞いて「ひときわ、心を込めたもてなしをせよ」「街道を整備して、家康殿が泊まるごとに、国持・郡持大名が出ていって、立派に接待せよ」と命令した。

家康も信長を迎えたときには、街道を整備、岩石のあらわな悪路を、石を除去して平らにしている。信長の頭には、安土に帰る途上で、家康から受けた接待の数々があったに違いない。その接待の内容に劣ることは許されないくらいの想いはあったであろう。

5月14日、近江の番場までやって来た家康と梅雪を迎えたのは、惟住五郎左衛門(丹羽長秀)だった。丹羽は、番場に仮館を作り、酒や肴を用意して、家康をもてなした。その番場には、信長の後継者・織田信忠も到着したことから、丹羽は信忠のもとにも顔を出し、一献差し上げたという。

信忠はその日のうちに安土に向かった。翌日には家康らも安土に到着。安土に着いた家康を接待したのが、明智光秀である。

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