これはその見物者が自分も毛づくろいをやってほしいからではなく、そうした親密な行為を通じて形成されようとしている結びつきを壊すためだという。
見物者がじゃますることが特に多いのは、毛づくろいをしている1頭が親しい仲間である場合(これは見物者がその仲間から受ける支援を独占したいと思っていることを示唆している)や、毛づくろいをし合っている2頭の両方が下位の個体である場合だ。
前述の事例からわかるように、下位の雄2頭が忠誠を誓い合うと、それより上位の個体に壊滅的な影響を及ぼすおそれがあるからだ。
「内集団」か「外集団」か?
ヒトはとりわけ、こうした社会生活の細部を気にしている。私たちは他者を反射的に「内集団」と「外集団」に分け、その判断のもとになる手がかりは完全に恣意的な場合さえある(初期の実験では、名札の色や、ピカソとモネの絵のどちらが好きかといった要素でも、こうしたグループ分けが生じた)。
このように過度にグループ分けを好む私たちの心理は、皮肉にもヒトの過度に協力的な性質から生まれたものだ。
最初期のヒトは互いに力を合わせることにより、自然のなかで直面する困難をだんだん乗り越えられるようになり、食料の欠乏、水の不足、危険な捕食動物の問題はどれも協力を通じて軽減することができた。
しかし、その結果、ほかのヒトの存在が主な脅威となった。ヒトは自然との戦いをしなくなり、ヒト同士で戦うようになったのだ。
こうした状況で、進化は社会的な能力に重きを置いたのだろう。自分自身の社会的な支援ネットワークの構築と整理、出会った他者の交友関係や同盟の監視、そして、何よりも重要なのは社会的な脅威の検知と回避の能力だ。
こうした脅威の検知システムがうまく働けば、自分に危険が及ぶことはない。しかし、検知に失敗すれば、自分自身が危険な存在になるおそれがある。
(翻訳:藤原多伽夫)
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