信長の命令で「妻と子殺す」家康の残虐行為の真相 「当代記」など複数史料から浮かび上がる説
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は家康の長男、松平信康、そして家康の妻の築山殿の死の真相に迫る。
徳川家康の痛恨事、松平信康事件(天正7年=1579年9月)。家康は嫡男の信康だけではなく、自らの妻・築山殿もこの時、殺害している。家康はなぜ妻子を殺害したのか?
これまで通説とされてきたのは、江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門忠教が著した『三河物語』を基にした次のような話である。
「三河物語」の通説と、ほかの史料の違い
信康の妻は織田信長の娘・徳姫であったが、彼女は信康と不和となり、信康を中傷する内容の書状を、徳川重臣・酒井忠次に持たせて、父・信長に見せる。
信長は、書状の内容の事実関係を忠次に確認し、間違いないことがわかると「とても放置できぬ。信康を切腹させるように家康に命じよ」と言い放つ。
家康は我が子に死んでほしくないと思うも、武田勝頼という宿敵がいるなか、勢威ある信長の意向に背くわけにもいかず、泣く泣く信康を切腹に追い込む。これが、信康事件の通説的見解だ。
『三河物語』は、家康の親心を察するとともに、武将としての器量があった信康の死を惜しむ。その一方で、信康を中傷した徳姫と、徳姫の書状を信長のもとに持参し、信長の指摘に「間違いありません」と頷いた酒井忠次を批判するのである。
しかし、『三河物語』以外の史料を見ていくと、信康事件に関して、また別の側面が浮かび上がってくるのだ。その史料の1つが『当代記』である。
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