信長の命令で「妻と子殺す」家康の残虐行為の真相 「当代記」など複数史料から浮かび上がる説

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『当代記』は、江戸時代初期に編纂された日記風の年代記であり、編纂者は姫路藩主も務めた松平忠明(1583〜1644。家康の外孫)とも言われているが、詳細は不明である。

戦国時代末から江戸時代初期の情勢を知るうえでの「重要史料」「貴重な史料」とされている。その『当代記』に信康事件に関する次のような一文があるのだ。

「8月5日、岡崎三郎信康が牢人となった。彼は信長の婿であったが、父・家康の命令に常に背き、信長をも軽んじたからだ。また、家臣にも情けがない、非道な振る舞いをした。これらのことを、先月、酒井忠次を派遣して、家康は信長に、信康の振る舞いや、それにどのように対処するかを伝達している。信長は、そのように父や家臣に見限られるのは仕方がない、家康が思うように処断せよと返答する。

家康は岡崎にやって来て、信康を大浜に退け、岡崎城には本多作左衛門を入れた。信康はこれは暫くの間のことだと思っていた。家康は西尾城へ移り、信康を遠州・堀江へ移し、それから二俣城へ移送。9月15日、この地において、信康は切腹する。信康の母(筆者注・家康の妻の築山殿)も浜松で自害した」

信長は「信康を切腹させよ」とは言っていない?

『当代記』の内容は、『三河物語』が記す「通説」とはかなり異なること
がわかる。

徳姫が夫・信康を中傷する書状を信長に送ったのではなく、家康自身が酒井忠次を信長のもとに遣わし、信康の処遇について「このようにしたいと思います」と伝えているのだ。それに対し、信長は「信康を切腹させよ」とは言わず、家康の判断に任せると答えている。

酒井忠次が信長がいる安土に赴いたことは『信長公記』からも確認できる。同書の天正7年7月16日の箇所に、家康から酒井忠次を使者として、馬が献上されたことが記されているからだ。

しかし『信長公記』には、信康事件についての記述は一切ない。

酒井忠次は馬を献上するためだけに、安土に行ったのではなかった。家康が信長の家臣・堀久太郎に宛てた書状(同年8月8日)には「今回、酒井忠次を使者として遣わした時の、信長様のさまざまなお心遣いは、久太郎様の取りなしのお陰であり、御礼申し上げます。さて、信康は不覚悟であったので、今月4日に岡崎から追放しました。なお、事の詳細は、小栗大六と成瀬藤八が申し上げます」とある。

次ページ「安土日記」の記述
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