信長の命令で「妻と子殺す」家康の残虐行為の真相 「当代記」など複数史料から浮かび上がる説

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信康の「不覚悟」という語句が何を指すのかは不明だが、不覚悟には「油断して失敗を招く」「覚悟ができていないこと」の意味がある。松平家忠(深溝松平家当主、1555〜1600年)が記した日記『家忠日記』には、同年8月3日、家康は浜松から岡崎に向かい、翌日、家康と信康は話し合ったうえで、信康は大浜へ退いた旨の記載がある。

同日記には、信康に手紙などを出したりしないよう家康は国衆に起請文(誓紙)を書かせたとの一文が見える(8月10日)。単なる不行状で追放されたにしては、厳戒体制だ。

いったい、何があったのか。『安土日記』に「三州岡崎三郎殿、逆心の雑説申し候」とあるのが、注目される。

つまり、信康に家康への謀反の噂があったというのだ。よって、信康を8月4日に岡崎から追放したという。 

ちなみに『安土日記』とは信長の一代記『信長公記』の諸本の中で、最も古いものと言われ、信用が置かれている書物である。

何らかの親子対立があった可能性

この『安土日記』でも、信長は信康を切腹させよとは述べていない。信康が本当に謀反しようとしたのか、その真偽はわからないが、前述したような厳戒態勢を敷いていることを考えれば、何もなかったということはできまい。何らかの親子対立があったと思われる。

『当代記』や家康書状からわかることは、家康が信長に我が子・信康の対処方針を示し、信長はご随意にと言っていることである。

『三河物語』の通説とは正反対だ。おそらく、信康に謀反かそれに類する動きが見られたので、家康は素早く動いて、信康を岡崎城から追放し、自害に追い込んだものと考えられる。

信康が切腹する9月15日より前、8月29日には、信康の母・築山殿が殺害されている。信康の「逆心」と何らかの関わりがあったと考えていいだろう。

信康に日頃から乱暴な振る舞いがあったのならば、廃嫡すればよく、切腹させるほどのものではない。死を命じるほどの事態となると、相当のことがなければいけない。

ただ、1つ気にかかるのは、信康事件に関連して、処罰された家臣がいないことである。謀反となると、やはり、そこには信康に賛同する、いくらかの家臣がいなければならないだろう。ところが、そのような者は見当たらないのだ。「反家康」の派閥が岡崎に形成されていたようには思えない。

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