大学教授が「学校に行かなくてもいい」という理由 不登校の子に必要なのは「サード・プレイス」
学校など命をかけて行くところではない
僕は、君たち若者におもねるようなことはしない。そして、もうすでにできていることに「光を当てるのだ」。光を当てないと、本当はもう存在している、すでにちゃんとできること、できているのだということがまわりにも本人たちにも気づかれないのであって、それはお宝の持ち腐れだからモッタイナイ。
・話せなくても、聞けなくても、書けなくても、励ませるのはエラいのだ。
・協力する根拠をきゅうくつな「真心」から切り離せるのならエラいのだ。
・他人の不幸と自分の良心の板ばさみのままで耐えられるのはエラいのだ。
最後に、そんなエラいと言われても、そもそも、やっぱり、どうしても、何度もトライしたけど、学校はどうしてもキツいと思う諸君に、そして明日になったらそうなるかもしれない君たちに、言っておこう。
どれもこれもキツいなら、学校なんか行かなくていいぞ。
理由はじつにかんたんだ。
学校などというところは、人間が命をかけて行くような場所ではないからだ。
それは、「人はどうして学校に行かなければならないのか?」という問題を丁寧に考えてみればすぐわかる。僕は50年以上学校にいるが、今のところ「学校というところにどうしても行かなければならない理由」は発見できていない。いまだに、だ。
え? キョージュでしょ? 学校で働いてるんでしょ? その人が、「行かなくていい」って、そういうのアリなんですか?
人の言葉は注意深く行間を読まねばならないのだよ。僕は、これを「学びたい人≠学校に行く人」という意味で言っているのだ。
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