大学教授が「学校に行かなくてもいい」という理由 不登校の子に必要なのは「サード・プレイス」

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学びたい人の期待感、ドキドキ感、止められない感のようなものは、僕もずっと持ち続けているからよくわかる。そして、学びたいという欲求と、「学ぶことでお金までもらえる」という機会が、ありがたくもドッキングしている大学という場所を確保してもらえたから、学校に「居る」だけなのだ。

貯金が10億円あったら、野尻湖畔の別荘で、良い料理人を雇って、朝から晩まで本を読む。もちろん大学など行かない。世界で一番嫌いな仕事「試験監督」をやらないでいいだけで人生は幸福だ。

だから学びたい気持ちがちゃんとあるなら、必ずしも学校や教室に居なくてもいいと思うのだ。なぜならば、学びは教室や学校でなくてもできる、いや、もしかしたら学校に行かない方が学べるかもしれないからだ。

それじゃ、学校行かないで家ならいいの? 家はどうなの?

さてさて、これが今日大問題なのだ。ふう。

家は「学校的なもの」になりつつある

人間に一番必要なものは、食べ物や睡眠や休息だ。でもそれは生物としての話だ。そうではなく「人―間」、つまり自分一人ぼっちだけこの世界にいても何の意味もない、「自分以外の人がこの世界にいるからこそ生きる意味がある」という理由から考えなければならない。

その時、必要なのは何か?

ホッとできる、楽しい居場所だ。

君たちの居場所はどこだ?

家と学校……の2カ所なんだろう。

どうして「なんだろう」なんていう言い方をしたかというと、僕が言っている居場所とは、ホッとできて楽しいという2つの条件がそろっていなければ、生きていくのにありがたい場所にはならないのに、君たちみんなにとってこの2カ所(学校と家)がそうだとは限らないからだ。

「友だち100人なんて要らないよ」と僕は言ったが、友だちが不要だと思っているわけじゃない。でも、学校にいる友だちはいいやつもたくさんいるけど、学校という場は、基本的には「何かが試されている」、「何かの順番がつけられる」、「大中小の緊張が強いられる」、つまりあまりホッとできないことがたくさん盛り込まれている場所だ。

高校に入って、「お前、第一志望?」、「ああ(本当は県立落ちて来たんだけど)、まぁ」というやりとりひとつ取ったって、なんだかストレスフルで面倒だ。

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