育児しつつ、世界的研究「子連れ女性学者」凄い生涯 女性初の日本物理学会会長「米沢富美子」の偉業

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米沢が研究のテーマに選んだのは、ガラスやゴムのように、明確な結晶構造を持たない物質・アモルファス。世界的に研究が進んでいないテーマだった。

「結晶は、日常生活でご存じなのは水晶など、見るからにきれいな結晶になっていますね。(しかし)アモルファス、あるいは非結晶というのはきれいに並んでいない。だから数学に非常に乗せにくい。結晶の方は今から50年近く前に本質的なところはすんだんです。ところが、アモルファスのほうは難しいのでみんな手が出せなかった」

未知の研究に心躍らせていたころ、思いもかけない出来事が起こる。大学の2年先輩で、すでに証券会社で働いていた米沢允晴(まさはる)から結婚を申し込まれたのだ。

エスペラント部の部長だった允晴とは大学2年生のころから付き合いはじめ、すぐに「一緒に人生を歩いていこう」と言われていた。

「あれも、これもという人生」が可能だとわかった

研究か結婚か真剣に悩んだ米沢。そのときの允晴の殺し文句が米沢の人生を変えることになる。

「物理は面白い。面白いけどすごく難しそうで、とてもじゃないが片手間にはできそうもない。かといって私は父が戦死していて父がいない家庭だったので、子どもがいっぱいいる家庭というのがイメージにあった。で、それも大変そうだし。とても両方はやれないと思ったんです。

まあ、しばらく考えたのちに、結婚は断ろうと。たぶん彼のほうはこのままだと、逃げられると悟ったのでしょうか、とても格好良いことを言ったんですよね。

『物理と僕の奥さんと両方取ることをどうして考えないんだ』って。そのとき、私は目から鱗でした。『人生、これか、あれか』ではなくて、『これも、あれもという人生』が可能なんだということがわかって。それ以来、私はあれもこれも全部取って暮らしてきた。夫になる人のあの一言がすべてを決めたと私は思います」

当時は結婚したら女性は家庭に入るのが当然とされ、「専業主婦」という言葉すらなかった。そんな時代に夫は「両方取る」選択を勧め、米沢はそれに従ったのだ。1961年、米沢は大学院に進学して修士課程1年のときに結婚する。

次ページ2年も経たないうちに、夫がロンドンに赴任
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