育児しつつ、世界的研究「子連れ女性学者」凄い生涯 女性初の日本物理学会会長「米沢富美子」の偉業

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原子の配置が不規則な金属の中で電子がどう動くのかを説明する理論で、数学の知識を総動員して導き出したものだった。

実はこのとき、世界中で4人の科学者がほぼ同時に似た内容の論文を発表しているが、くしくも米沢を含めた全員が28歳と29歳であり、出会ったときは大いに盛り上がったという。

4人の中でも米沢が発表した方法は、数学的にもっとも優れたものであり、この業績によって米沢の名は世界に轟いた。米沢は夫の言葉について、こう振り返っている。

「あれは彼なりの“励まし”、“激励の言葉”だって。それを言ってもらえなかったら、たぶん私は育児の忙しさ、大変さ、つらさに負けて、研究がおろそかになったと思うんです。それでもう、意地で机にかじりついて、世界的な新理論に到達することができた」

研究の時間自体はそんなに影響を受けない

1970年には三女を出産。子どもと国際会議に出席し、「学会の子連れ狼」と呼ばれた。「大きな会場で、階段教室みたいになったところの一番上に(子どもを)座らせておくんですね。それで、私が発表したら『あっ、ママだ!』とか言って上からワーッと下りてきて、会場は爆笑になって。世界じゃ有名なんです」

育児に研究の時間がとられてしまうのでは、という質問にはこう答えている。

「いや、あのですね、他の時間はなくなるんです。例えば、映画を観に行ったり、コンサートに行ったり、みんなと飲みに行ったりとか。そういう時間はなくなるわけですけど、研究の時間自体はそんなに影響を受けないというのが、私の持論です」

その後、ニューヨークへ家族とともに移って研究を続け、夫もニューヨーク勤務となって一緒に暮らした。

帰国後、京都大学を経て44歳で慶應義塾大学の教授に就任。最先端のコンピューター・シミュレーションを駆使し、コストの低いアモルファス太陽電池の開発に貢献した。しかし、活躍の陰で病魔が次々と米沢を襲う。子宮筋腫と乳がんを相次いで発症、子宮と左右の乳房を失った。そして、夫・允晴が亡くなる。

「出産したときも育児のときも、年に平均5本の論文を書いていた。すごくハイピッチですけれども。ところが夫が他界した1年は、論文が1つも書けなかったんです」

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