米沢の母は高等女学校時代に数学の虜になり、食事の時間も惜しんで好きな幾何学の問題を解いていたという。何日も銭湯に行かずに問題を解き続ける娘を見て、米沢の祖父は自宅に風呂をつくったという逸話がある。
しかし、家人の反対で上級学校への進学を諦めていた。母は何気なく娘に証明法を図解しただけだったが、たちまち理解した5歳の米沢は「もっと教えて」と母にせがんだ。
「これがあればおもちゃもいらないし、何もいらない。幾何だけで暮らしていけるというくらい、ものすごく感動して、それで『もっと教えて、もっと教えて』と言って教えてもらったんです」
湯川秀樹に会いにいくことを思いつく
戦時下でも母は折にふれて幾何の問題を教え、米沢は小学校低学年のうちに中学の幾何を習得することができた。小学5年生のときにはIQ175を記録。大阪府で一番の成績である。中学時代は理解のある教師に高校で習う微分積分をすべて教えてもらっていた。
1957年、京都大学理学部に入学。女子の進学率が2.5%という時代で、米沢の周囲からも働いて家計を助けるべきだという声があったが、母の後押しで進学することができた。数学が大好きだった米沢だが、当時、物理学科の教授だった日本人初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹にあこがれて、理論物理学の道に進む。
「どういう規則で動いているか、どういう法則で動いているかというのを見つけ出すのが理論物理学なんですね。じゃ、何をやってんだと言われると、論文を読んだり、本を読んだりしながら、新しい法則とかモデルを自分で探していくということになるわけです」
理学部は120人中、女子は4人。クラス分けすれば、50人の中で女子は1人きりに。まわりの男子もたった1人の女子と上手く付き合うことができず、息苦しさを感じていた米沢は突然、湯川に会いに行くことを思いつく。
「湯川先生は雲の上の存在だったんですけども、知人を通じてアポを取ってもらったんです。ものすごくお忙しい方なので、会議と会議の間の5分間で、会議室の隅っこのようなところで会ってくださった。こんな本を読んだらいいでしょうといろいろ教えてくださったんです」