元亀元(1570)年6月28日、家康は一番隊として出陣。『信長公記』によると、敵の浅井勢は5000の兵で、朝倉景健の8000の兵を合わせて、約1万3000人。対して、家康は5000の兵を率いており、信長との兵を合わせて約2万5000人だったと言われている。
家康は、越前の軍を前に激しい戦いを繰り広げながら、敵の陣を打ち破っていく。信長の軍が本陣近くまで攻めよられるなかで、家康が横入りするかたちで応戦。見事に勝利を収めることとなった。
これが「姉川の戦い」として知られる戦の顛末である。
家康の活躍は定かではない
信長が家康軍の奮闘に感謝する言葉が、『三河物語』にも『徳川実紀』にも記されている。
「今日の合戦は、家康の手腕で私も名をあげた」(『三河物語』)
「すべて徳川殿の武威によるものである」(『徳川実紀』)
その一方で、『信長公記』には家康の活躍は特筆されていない。そのため、実際のところ、家康がどれだけ目覚ましい活躍をしたかは定かではない。そもそも
そんな家康の「攻め」の姿勢は、戦だけで発揮されたわけではない。同時期に家康はこれまで居城とした岡崎城を嫡男の信康に譲っている。
そして自身は浜松城へと拠点を移した。武田信玄の侵攻に備えて「やれることはやっておく」というのが、家康らしい。信玄との激突の日が近づいていた。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』 (吉川弘文館)
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
二木謙一『徳川家康』 (ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』 (歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
大石泰史『今川氏滅亡』 (角川選書)
佐藤正英『甲陽軍鑑』 (ちくま学芸文庫)
平山優『武田氏滅亡』 (角川選書)
笹本正治『武田信玄 伝説的英雄像からの脱却』 (中公新書)
太田牛一 、中川太古訳『現代語訳 信長公記』 (新人物文庫)
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