執筆のためにこもった宿で何をしていたのか、太宰は「借金を作ってしまって、今は手持ちがないから返せない、お金を届けてくれないか」と内縁の妻・初代に手紙を送る。初代は、太宰の友人である檀一雄にお金を預ける。そして「これを太宰に届けたら、太宰を早く連れて帰ってきてください!」と頼んだのだった。
しかし(だいたい予想できる展開だが)熱海に向かった檀は、気がつくと太宰とともにそのお金を浪費してしまった。居酒屋のツケ、遊女代、宿泊料――結局借金は、返すどころか、膨れ上がってしまう。
仕方がない、私は友人の菊池寛のところへ金を借りに行くよ。そう述べた太宰は、
「明日、いや、あさっては帰ってくる。君、ここで待っていてくれないか?」
と檀に約束する。こうして太宰は、檀を熱海に残し、東京へ向かう。だが何日待っても、太宰は熱海に戻ってこない。檀は2人分の借金を払えるはずもなく途方に暮れる。そしてさすがに東京へ太宰を探しに行った。すると太宰は、何と井伏鱒二と将棋を打っていたのだ!
さすがに檀も激怒する。すると太宰は言った。
「待つ身がつらいかね。待たせる身がつらいかね」
井伏鱒二が衣装を売って借金を肩代わり
この発言の是非は置いておいて、状況を察した井伏鱒二は、太宰のもう1人の師である佐藤春夫とともに、何と太宰と檀の作った借金を肩代わりしてくれる。しかも自らの衣装を売ってそのお金を作ったらしい。驚きだ。
檀はこのときのことを、井伏鱒二の小説『丹下氏邸』とともに回想する。
女の、おびただしい勘定書。つまりは遊女と遊んだ領収書のことだ。しかも膝の上に山積み。気まずいことこの上ない。そりゃ生涯最も恥ずかしい体験の1つであろう。
しかしなんとこの「生涯最も恥ずかしい体験」こと「熱海事件」こそが、太宰治の代表作『走れメロス』を書かせたのではないか。そんな説があるのだ。というのも後日『走れメロス』を読んだ檀が「おそらく私たちの熱海旅行が、少なくともその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた」と書いている。
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