たしかに考えてみれば、『走れメロス』のメロスは友人セリヌンティウスを人質にしている。「3日後の日没までにメロスが帰ってこなければ、セリヌンティウスは代わりに処刑されてしまう」といった設定のリアリティも、2人分の借金を押し付けられた檀と、金策をなんとかしようとした太宰に置き換えれば……そりゃ借金を払えないのは、処刑並みの緊張感があっただろう。
『走れメロス』の結末は、メロスがちゃんと戻ってくるが、何度も「逃げたい」と感じたことをセリヌンティウスに詫び、一方でセリヌンティウスは何度も「メロスは戻らないのでは」と疑ったことを詫びる。この美しい友情が、いまだに国語の教科書に『走れメロス』を載せさせている。
が、この背景には太宰と檀の借金があり、そして結局、太宰は「戻ってこなかった」という事実を鑑みれば……ちょっと『走れメロス』という物語の見え方が180度変わってくる。そう、むしろ太宰は現実の自分にできないことを、メロスにさせていたのである。
フィクションを書くことに何よりも才能があった
メロスは太宰と違って、情に厚く、約束を守ろうとする。そして正義感が強く、家族を大事にするマッチョな男だ。逆に太宰は、檀に借金を押し付けて逃亡し、妻に借金を謝罪させ、実家とは折り合いが悪すぎて、さらにそのストレスから酒と女と文芸に逃げる意志薄弱な男性である。真逆だ。つまりメロスとは、太宰が「自分はああなれない」と思う男性像そのものだった。
私はここに太宰の才能を見る。太宰治の小説は時に「私小説的」だと評されるが、『走れメロス』のエピソードを読むと、むしろ「小説家としてフィクションを書くこと」に何よりも才能があった人なのだろうと感じる。小説家としての「うそ」をつく才能がありすぎて、読んだ人は「これは実話なんだろう」とだまされてしまうのだ。
だから『走れメロス』も、実話から発想を得た話でありながら、自分とは真逆の男性像を主人公として、いきいきと描くことができたのだろう。
そんな太宰の小説家としての才能を誰よりもわかっていたのが、井伏だった。井伏は太宰の死後、「あんな天才が死んでしまうなんて」とその死を悔やんでいたと井伏の妻が語っている。
井伏鱒二は太宰治の文才に、小説家としての才能に、惚れ込んでいた。だから借金まで肩代わりしたのだ。たぶん妻には時にあきれられながら、自分の衣装を売ってまで。それは『走れメロス』に匹敵するほどの、友愛に満ちた、才能への信頼の物語だったのだろう。
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