陳建一氏「料理の鉄人」出演2度断ろうとしたワケ 一流料理人たちをも悩ませていたコンセプト

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挑戦者のプロフィールを必ず紹介し、彼らの技にカメラを向ける番組は、低く見られがちだった料理人の地位を上げた。最近でこそ、地産地消やSDGsを意識した店を営むシェフはめずらしくなくなっているが、そうした社会意識の高い料理人がたくさん出てきたのは、同番組が料理人を尊敬されるべき職業としたことが大きいのではないだろうか。

『料理の鉄人』はまた、料理人の技術アップにも貢献したと思われる。何しろ、フルコースの中心になる「テーマ食材」は本番になって初めて、鉄人と挑戦者に知らされるのだ。即座にコースを組み立て、60分の制限時間内にテレビカメラが回り審査員らが注目する中で、たった1人の助手と一緒に作り上げなければならない。しかも、その料理で勝ち負けが決まる。過酷な仕事だ。

9カ月連続、14連勝という偉業

そんな番組で陳氏は、1993年の放送開始時から1999年の終了まで、挑戦者を受けて立つ中国料理の鉄人を務め続けた。日本料理、フランス料理、のちにイタリア料理も加わった鉄人の中で、スタート時は最年少の30代だった。

22敗は鉄人の中で最も負けが多いが、出場数も最多の96試合。1996年3月から12月まで、9カ月間も14連勝した偉業は、日本料理鉄人の道場六三郎氏もフランス料理の鉄人、坂井宏行氏にも成し遂げられなかった。名勝負が多かったことでも知られる。

この番組に出演し、有名になった料理人は多い。料理研究家だが、小林カツ代氏も1994年にテーマ食材のジャガイモを使いこなし、陳氏に勝ったことでふだん料理番組を見ない男性たちにも自分の存在を知らしめるきっかけになった。

陳氏は同番組終了後、フジテレビの番組スタッフが編集した『料理の鉄人大全』でインタビューに答えている。内容を見ると、陳氏は2度、出演を断ろうと考えていたことがわかる。

同番組で戦い続けるには、料理を作る技術と速さだけでなく、柔軟な発想力、衆人環視のもとで料理する度胸が必要だ。オファーがあったとき、陳氏は「僕はそんなことをやる自信ないな」と迷ったという。

しかし、陳氏は自分の世界が広がり進歩するのではないか、と引き受ける。番組で有名になったことで店には客が押し寄せ、陳氏個人への仕事のオファーも増えた。しかし、どんなに忙しくても「自分で汗をかく」ポリシーを持つ陳氏は、手を抜かなかった。

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