陳建一氏「料理の鉄人」出演2度断ろうとしたワケ 一流料理人たちをも悩ませていたコンセプト

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それゆえだろう。出演して3年目ぐらいの頃、降板を考えるようになる。プロデューサーに辞意を伝えたところ、スタッフや坂井氏などから引き止める電話がかかる。「俺は必要とされているのかな」と思い、坂井氏に相談し真剣に話し合って続投を決めた。

陳氏が6年間やり通せたのは、気負い過ぎず、ぶっつけ本番、アドリブで遊びの要素を加えていったから。他の人は事前に知らされる5つのヒントと審査員のメンバーに合わせ、作戦を練り打ち合わせをするのに、「僕の場合はないからね、レシピが。思いつきの男、すぐ変更する男、陳建一だったから(笑)」、と同インタビューで陳氏は語っている。

陳氏は、番組終了から間もなく出した著書の『ぼくの父、陳建民』でも、鉄人の経験を振り返っている。最初は、食べた人に幸せになってもらうことが目的の料理で対決する、という番組の発想に違和感を覚えたという。料理対決、というそれまでにない企画と出演者たちは当時、同様の視点から多くの批判も受けた。

しかし、店のスタッフらが出演に乗り気だったこと、道場六三郎氏、最初のフランス料理鉄人の石鍋裕氏という大物の先輩と働いて学べることは大きい、と出演を受けたことを明かす。出演した6年間は、技術と度胸とたくさんの友人を陳氏にもたらした。

父親「陳健民」の存在も大きかった

陳氏がやり通せたのは、番組開始前の1990年に70歳で亡くなった父の陳建民氏の存在も大きかったのではないか。建民氏は吉永みち子氏作でドラマ化された『麻婆豆腐の女房』のもとになった、伝説の料理人である。麻婆豆腐やエビチリ、担々麺、棒棒鶏などの四川料理を日本人向けにマイルドな味つけにして紹介し、人気にした立役者。「料理の神様」の異名を取り、『きょうの料理』(NHK)では、中国なまりの愛嬌があるトークが親しまれた。

建民氏は1919年、四川省の没落地主の家に生まれ、3歳のとき父親が亡くなり一家離散の憂き目にあう。5歳で母を助けて働き始め、まともに勉強できたのは1年だけ。10歳から料理修業を始めて中国各地を渡り歩き、1952年に来日している。東京の新橋田村町で四川飯店を開業したのは1958年だった。

この頃、高度経済成長中の日本で一旗揚げよう、と建民氏のような料理人が続々と中国から来日し、戦争で人材不足になった日本の中国料理の技術を引き上げた。NHKやアメリカ大使館、帝国ホテルなどがあり、多くの顧客が見込める田村町は、「東京のリトル香港」と称されるほど、本格的な中国料理店が続々とできていたのだ。中国で腕を磨いた建民氏は、ここでもまた切磋琢磨の日々を送っている。

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