豊田章一郎氏が遺したトヨタにおける「豊田」の意義 強いリーダーシップと集団統治の双方を調和できるか
アクセルペダルなどの不具合に伴う一連のリコールがアメリカで社会問題化したときのことだ。2010年2月24日にアメリカ下院監督・政府改革委員会で開かれる公聴会に出席した。アメリカのメディアは、「TOYOTA創業家の社長が出席」とその姿勢を高く評価した。章男氏は、非日常的な「非常事態」においてカリスマ性を発揮した。
このリコール問題を契機に豊田章男氏は、自ら最前線に立って説明することを心がけるようになった。自己変革である。CM「トヨタイムズ」で両手を大きく広げてスピーチする姿からは、アメリカ企業の経営者のようなスター性を感じさせる。あのようなパフォーマンスが堂々とできるのも豊田家出身だからこそ。サラリーマン(ウーマン)社長が、あれほど目立つ行動に出れば、必ず足を引っ張る輩が出てくる。ところが、創業家出身者であれば、スターになっても、皆、「しようがない」と納得してしまう。
どんな企業でも経営者の「好き嫌い」が影響
カリスマ性支配の影響力には大きな死角もある。1つ間違えれば、独裁者と見られてしまう。いや、そうなってしまうかもしれない。世襲でトップになった人に対して、メディアはとかく色眼鏡で見がちだ。創業者あるいは創業家出身のカリスマ経営者を指して、「好き嫌い人事を行っている」と痛烈に批判しているジャーナリストがいる。
では、サラリーマン(ウーマン)社長なら好き嫌いをしないのだろうか。そのような愚問をしなくても、現在、宮仕えをしているビジネスパーソンなら、組織内でどれだけ好き嫌いが人事ほかに影響を与えているかを痛感しているはずだ。
どのような評価システムを構築しようとも死角はある。評価する側の経営者や上司も「人」という不完全な存在であるからだ。彼らが、「人」のキャリア、ひいては人生を左右しているのだ。「不条理」はなければこしたことはないが、不完全な人という存在が組織を構成している限り、不条理は消滅しないだろう。それが、複雑な人間社会の本質なのだ。
「専制独裁国家」対「民主国家」といった比較議論が活発化している。どちらも当事者は長所のみを強調する。しかし、専制国家では国民から反独裁、民主化への要望が高まり、一方、民主国家ではポピュリズム(愚衆政治)をはじめとする民主主義の危機が叫ばれている。企業統治を巡っても同様の動きが見られるようになってきた。
強いリーダーシップを発揮する独裁色が強いスタイルが良いのか、それとも、集団指導的な企業統治が良いのか、といった議論である。トヨタ自動車は今回の社長交代を契機に、これら双方を調和できるだろうか。口数少なかった豊田章一郎氏は、「無言の社外取締役」として、天国からトヨタ自動車の行方を見守っていることだろう。
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