テレビは「こどもの国語力」の基盤になりうるか テレビが目指すべきネットにはない「網羅性」
社会変化の中でのテレビの役割
科学技術の進歩によって、これからの70年は、それまでの時代とは比べものにならないぐらいの激しい社会変化が起こると考えられます。そんな未来にテレビが残っているとすれば、紙芝居や落語が形を変えて今も存続するように、社会的な立ち位置が大きく変わっているはずです。
明治や大正、昭和のエンターテインメントの大半は、現在では人々の教養を支えるものとして活用されています。図書館の家族イベントで紙芝居が使用される、落語が教科書に載るといったことがそれを示しています。
では、70年後の日本でテレビはどういう役割を担うのか。私は人々の語彙、情緒、想像といった力を育てるツールとして使われるのではないかという気がします。昨年、拙著『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋)が話題になり、広く読まれました。
国語力とは狭義の読解力にとどまらず、語彙をベースにして情緒力、想像力、論理的思考力、表現力を中核とした全人的な力を示します。自分の感情を言語できちんと知覚する、他人の考えや痛みを想像する、物事の因果関係を考える、他者の理解を得られるように表現する。こうした力は学力の基盤となるものであり、やがては生きる力そのものになっていきます。
私は、現代におけるテレビは、未来の子どもたちの国語力の基盤を作るために用いられる可能性があるのではないかと思っています。最近の子どもたちの傾向を思い浮かべてください。彼らはネットニュースで、自分で取捨選択して自分の興味のあるニュースしか見ませんし、ユーチューブでお気に入りのチャンネルばかりを閲覧するので限られたユーチューバーの語彙や表現にしか接しません。
あるいは、Netflixに代表されるように、ドラマと言っても韓流のラブコメだけを見続けるといった現象が起きています。これでは、彼らの世界は広がっているようで、実のところは狭められています。では、テレビはどうでしょう。
ニュース番組では、ランダムに情報が流れます。ウクライナの問題も、台風の被害も、クマが町に出現したことも、スポーツの結果も、あらゆる情報が並列に報じられるのです。これは、子どもたちに無作為に多くの情報を与えます。情報の一つひとつは点にすぎませんが、それを知識で繋いでいくことで、大きな世界観を作り上げることができます。
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