徳川家康が「武田信玄」に心開かなかった複雑事情 取り決めを約束違反される出来事が起きる

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信玄と家康と言えば、後の三方ヶ原の戦いのイメージから、ずっと敵同士と思われているかもしれないが、そうではない。

そしてついに、永禄11年12月6日、信玄は駿河への侵攻を始める。信玄は侵攻前に、今川重臣(朝比奈氏、葛山氏ら)に調略を仕掛け、内応を約束させていたようだ。今川氏真は侵攻に抗すべく、自ら出陣するが、家臣の離反により、駿府に引き返すことになる。

武田軍は、調略が功を奏し、12月13日に駿府に入った。氏真は駿府の今川館から、掛川城(掛川市、朝比奈氏が守備)に逃れる。奥方(北条氏康の娘)の「乗り物」も用意できないほどの準備不足と慌てようであった。

信玄が駿河を攻めると、予想通り、小田原の北条氏が今川方として、参戦してくる。北条氏の参戦により、信玄の駿河侵攻は、当初、目論んでいたより、進展しなかった。

さて、信玄と連携していた家康も同年12月中旬に遠江に攻め入る。家康もまた遠江の豪族への調略を行っており、菅沼氏・近藤氏・鈴木氏などが寝返った。高天神城(掛川市)の小笠原氏も帰服する。

家康の遠江侵攻に横やり

家康の遠江侵攻は順調であったが、思わぬところから、横やりが入る。武田方の別働隊(秋山虎繁の率いる信濃衆)が、北遠江に進出してきたのである。

武田別働隊は、引間(浜松市中区)に向かう勢いを見せる。『三河物語』には「大井川を境に、駿河を信玄の領分、大井川を境に遠江が家康の領分と定まっているのに、秋山が出陣してきたのは横車を押すことになる。すぐに引き返えされよ」と、家康が秋山に抗議したとある(これにより、秋山は兵を退いたという)。

12月22日付の信玄が家康に宛てた書状には「家康の急速な出陣に満足していること」や「掛川城の今川氏真を攻めるべきこと」、そして何より「(武田軍が)遠江国へ向かうこと」が堂々と記されている。

前述したように、武田と徳川の間には事前の取り決めがあったはずだから、これは信玄による「約束違反」ととることもできる。一方、遠江国は徳川・武田の切り取り次第という約束であったのに、それを突然、家康方が反故にしたとの見方もある(平山優『新説 家康と三方原合戦』NHK出版)。

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