徳川家康が「武田信玄」に心開かなかった複雑事情 取り決めを約束違反される出来事が起きる

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しかし、織田と武田の同盟は、武田家の内部に亀裂を生む。今川氏真の妹を妻としていた信玄の嫡男・武田義信は、今川氏との同盟を保ちたいと考えており、信玄の路線に反発したのだ。

義信派の武将(例えば飯富虎昌)は信玄に謀反しようとしたが、事前に発覚。飯富は処刑された。義信も幽閉されたが、永禄10年(1567年)に病死。武田家内部の「今川派」が粛清されたのだ。

こうした武田氏の動きに、今川氏真も対抗する。武田信玄の宿敵というべき越後の上杉謙信と接近を始めたのだ。今川と上杉の接近・交渉は、永禄10年の前半にスタートし、両家の重臣がやり取りをしている。

そして、翌年の永禄11年(1568年)には「両家は裏切りや隠し事はしないこと」「事態によっては謙信が信濃国に兵を出すこと」「信玄が裏切った時は申し入れをすること」「信玄から計略の手紙が届いたら、必ず報告すること」などが取り決められたようだ。

今川と上杉の交渉が察知されてしまう

だが、この今川と上杉の交渉は、信玄に察知されてしまう。永禄11年、信玄は駿河国に侵攻するが、これは、今川氏真が上杉と通じ「信玄、滅亡の企て」に参画したからであった。

もちろん、それだけではなく、信玄の胸中には、遠江や三河の豪族が離反し、弱体化していく今川氏をこの機に攻め、駿河国を手中に収めたいという野心もあっただろう。

信玄は、駿河を攻める以前から、信長と「駿河・遠江国」のことについても話し合いをしていた。駿河侵攻は、信長の合意のもとで行われたのだ。

永禄11年9月、信長は足利義昭を奉じて上洛を果たしている。信長と信玄の同盟は、信長にとっては、上洛を見据えてのもの(上洛の際、後背で信玄が策動することを防ぐ)であったし、信玄にとっては、駿河侵攻を視野に入れてのものだったはずだ。

ただし、駿河・今川氏を攻めれば、今川と婚姻関係にある小田原の北条氏(北条氏康の娘が、今川氏真に嫁いでいた)が軍事介入してくる恐れもあった。信玄だけで今川を攻めるのは危うい。

そこで、信長を通じて、徳川家康との連携が行われるのである。武田・徳川の間では、武田の駿河侵攻に呼応して、徳川は遠江国を攻めることが事前に取り決められた。信玄は駿河、家康は遠江を取ることが決められていたと思われる。

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