徳川家康が「武田信玄」に心開かなかった複雑事情 取り決めを約束違反される出来事が起きる
家康は信玄に抗議したので、翌年の永禄12年(1569年)1月8日、信玄は「秋山の信州衆が遠江に在陣していること、これを我が方が遠江国を狙っているとお疑いのようですね。秋山らの軍勢(下伊那衆)は、我が陣に招きましょう」と秋山の軍勢を駿府に退かせることを言明している。
信玄は、当初から「約束違反」をして、駿河の次は遠江に侵攻する意図を持っていたのだろうか。
しかし、家康軍による素早い遠江攻略と、北条氏参戦による武田軍の苦境により、信玄の目論みは潰える。
永禄12年2月、信玄と家康の間に起請文(誓紙)が取り交わされた。信玄は「いささかも、疑念はありませんが、起請文を交わすことを私が希望したところ、無事に整い、めでたいことです。使者の目の前で血判をしました」と書状(2月16日)で述べており、信玄方から誓紙を取り交わすことを願い出たこと、それは血判であったことが分かる。家康の疑念を払い去りたいと思ったのだろう。
心から信玄を信用できない家康
しかし、いくら誓紙を交わしても、家康は真に信玄を信用することはなかった。それは、家康の以後の対応に如実に現れてくることになる。
もちろん、信玄にしても、誓紙など単なる紙切れ、いつかは家康の裏をかき、目的を達成してやるという思いを新たにしていた可能性もあるだろう。
・柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社、2017)
・本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010)
・本多隆成『徳川家康の決断 桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中央公論新社、2022)
・平山優『新説 家康と三方原合戦 生涯唯一の大敗を読み解く』(NHK出版、2022)
・濱田浩一郎『家康クライシス 天下人の危機回避術』(ワニブックス、2022)
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