「MARCH」と大学を括る人が知らない偏差値の本質 茂木氏の問題提起から偏差値の扱いを考える
脳科学者として著名な茂木健一郎氏が最近ツイッターで、「MARCH」や「大東亜帝国」などといった、偏差値を基準にして複数の大学を一くくりに呼ぶことに疑問を示し、それに関連してさまざまな意見がネット上にあふれている。
本稿では、茂木氏の問題提起を前向きに捉え、数学の世界で生きてきた者として「偏差値」の扱いを深く考えてみたい。本質を捉えないで皮相な面だけで判断する世相の問題点に行き着くのである。さらに、そのような問題点を直視する立場から、最近注目されている「データサイエンス」の学びに関しても考えてみたい。
その前に、茂木氏が指摘した「それぞれ独自のスクールカラーと誇りある伝統を持つ学校(大学)であって」という部分は重要であって、また専攻する学部・学科を無視して議論することは意味がない。これは、来月末に定年退職となり、専任・非常勤合わせてのべ10の大学に勤務して、約1万5000人の学生(文系・理系それぞれ半々)に教鞭を執った者としての大学教員人生45年間のまとめである。
高偏差値の学部ができるカラクリ
第2次ベビーブーム世代が大量に受験した1990年代前後、週刊誌等で「ついにMARCHは偏差値で東北大学に差をつけた!」といったような記事が躍っていたことを鮮明に思い出す。これを見て、「そもそも偏差値とはなんだろうか」と疑問を抱く読者も少なくないだろう。偏差値の定義式やその問題点は後述するが、とりあえず、それを利用する立場での問題点から話を進めたい。
「個性尊重」とか「多様な人材を集める」などという“理由”による“入試改革”が、1980年代にいわゆる有名私立大学文系学部から始まった。内実は「少科目入試」であり、背景には「偏差値のつり上げ」がある。およそ入試での偏差値は、生徒が受験した科目の日頃の成績と合否結果で算出するのである。
たとえば、英語と社会だけで受験できる某私立大学があるとする。A君は数学と理科の偏差値は35であるものの、英語と社会の偏差値は70とする。Bさんは数学、理科、英語、社会どの科目の偏差値も65とする。その大学の受験結果でA君は合格しBさんは不合格になったとすると、その大学は偏差値70の人は合格するものの偏差値65の人は不合格になる“超ハイレベル”な大学ということになる。前述の記事の背景には、そのような算出法がある。
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