刑事ドラマの金字塔「太陽にほえろ!」誕生秘話 刑事からの視点でテーマが「憎しみ」から「愛」に

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ちょうどそのころ、斜陽になった映画会社がテレビに乗り出そうと考えていて、東宝、松竹、大映、日活の4社と組んで「青春シリーズ」を制作する企画が立ち上がりました。それぞれ30分4本のシリーズを1シリーズずつ制作するプランで、僕を含めた同期4人が各社を担当することになり、僕の担当は東宝でした。

当時の映画会社のテレビ部は、社内でまだ発言権が弱く、第一線の監督や俳優はあくまで映画優先でなかなかテレビに引っ張り出すことができませんでした。特に東宝はまだ映画も順調だったので、テレビ部の面々とともにずいぶん苦労しました。日本中が東京五輪に浮かれるなか、こちらはなかなかヒットが出せず、苦悩の日々を過ごしていました。

光明が差したのは、同僚の小坂敬が「風来坊先生」(1964〜65年)を成功させたことです。これは私にとっても大きな希望になりました。さらに追い風になったのが、劇場用映画の制作本数が減っていくなかで、作品を作りたいのに作れない映画人たちがテレビに進出しようという機運が高まったことです。ゴールデンタイムに放送できる質の高いドラマを制作したいと熱望していた私たちにとって渡りに船でした。

ところが、テレビに出演したいと望む映画俳優も、スタジオものなら即OKなのに、テレビ映画は躊躇する人が多かったんです。理由は16ミリフィルムは画面が粗く綺麗に映らない、暖房も冷房もない環境では十分な演技ができない、といったことでした。当時のテレビ映画はアフレコだったので、自然な演技を志向する俳優にとっては耐え難いことだったのでしょう。

岡田プロデュースの“青春ドラマ”誕生

1965年はテレビ映画にとって大きな飛躍の年になりました。日曜と月曜の夜8時枠、ゴールデン中のゴールデンタイムでテレビ映画の放送が決まりました。私は型破りの先生が主人公の学園ドラマを企画しました。それが「青春とはなんだ」です。

石原慎太郎の原作を一晩で一気に読んで、「これはいけるぞ」と。当時の若者はアメリカに憧れがあり、アメリカ帰りでアメリカ仕込みの教育方針を唱える主人公は無条件に支持されるだろう。学園ものとしての教師と生徒の話にとどまらず、田舎町の古い因習や保守的な考え方を打ち破る、強いものに挑戦していく主人公は当時の若者たちの憧れの存在となりました。

このドラマがなぜヒットしたのか。それは、受験戦争と厳しい学校の規則に反発していた中高生たちに「理想の学校」と受け止められたからではないでしょうか。実際に本気で入学希望を申し込んできた中学生もいました。放送の翌日、女子中高生たちが学校でドラマの話をするので、番組の広がりが速いと実感しました。

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