織田へ金で売られた「徳川家康」不遇すぎる幼少期 3歳で父母が離縁、6歳から人質生活に突入

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徳川家康の幼少期について解説します(写真:masaki/PIXTA)
1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がスタートする。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた徳川家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性を紐解きながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』の第3回は、家康の幼少期について解説する。

生まれる前から運命づけられた「波乱の人生」

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし」

しばしば歴史人物は後世から「こんな人物だったのではないか」という期待を背負わされる。その結果、言ってもいない「名言」を創作されてしまうことが珍しくない。家康の言葉として伝えられた冒頭の言葉が、好例だろう。これは家康による遺訓ではなく、幕末期に幕臣の池田松之介によって創作されたものだ。

しかし、この遺訓が本人のものだと信じられるほど、確かに家康の人生は重荷を背負わされたものだった。波乱尽くしの生涯は、家康が生まれる前からすでに運命づけられていたといってよい。

天文4(1535)年12月5日、家康の祖父にあたる松平清康が誤解によって、家臣の息子に殺されてしまう。のちに「守山崩れ」と呼ばれる事件である。わずか10歳の広忠が後を継ぐことになり、岡崎家は失速。対立していた叔父の松平信定に岡崎城を追われてしまう。広忠は今川氏を頼るほかはなかった(前回記事『「徳川家康」が今川義元の人質となった意外な経緯』参照)。

家康の父にあたる広忠が、今川氏の庇護に置かれたことで、のちに生まれる家康の幼少期に多大な影響を及ぼすことになる。その1つが、家康の父と母の離縁である。

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