40歳にモノづくり漫画で花開いた男が掴んだ天職 「シブすぎ技術に男泣き!」見ル野栄司の舞台裏

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「それで夜中に借金取りに見つからないように、自分の工具箱を持って逃げました。変な経験でしたね。

それからは機械系のフリーランスになりました。派遣会社に登録して、派遣された先で仕事をする感じです」

大手メカトロニクス系の会社に派遣されて、1台10億円の機械を作ることもあった。

「大手企業はとにかく厳しいんですよ。タバコは吸っちゃダメだし、休憩時間も無駄口をきいたらいけない。ただただ図面通りむちゃくちゃ難しい機械を黙々と作るんです。

朝5時に家を出て、家に帰ってくるのは深夜の0時でした。時給はよかったので、かなり稼いではいました。

でも、こりゃもう漫画は描けないな……って諦めていたら、知り合いの漫画家から電話がありました」

『ウンナンのホントコ!』というテレビ番組のオーディションを受けないか? という誘いだった。

100倍の難関を突破してテレビ番組出演

5人の漫画家志望者がトキワ荘で漫画作品を発表して、3週連続トップを取れば『ビッグコミックスピリッツ』に掲載できるという企画だった。

「二つ返事で『やる』って言って、会社をやめました。それで番組のオーディションを受けました。まあ割と金たまってたんで、どうにかなるかな? 失敗したらまた町工場に勤めればいいやって思ってました」

オーディションはなんと100倍の難関だったが、見ル野さんは受かった。

「なぜか受かってテレビに出ましたけど、投票で最下位ですぐに首になりました。

で、結局また町工場で働きました。クリーニング屋さんのシャツを板にはめて乾燥させる装置を作ったり、納品したりしてましたね。

漫画の応募も再びしていて、スピリッツ努力賞をやっと取れましたが、連載には程遠かったですね。

そんなころ、『ウンナンのホントコ!』の打ち上げがあって、顔を出したんです」

ちょうど『月刊IKKI』(小学館)が創刊されるタイミングで、打ち上げに顔を出していた副編集長から

「今度雑誌を立ち上げるから見ル野君、連載してください」

と言われた。

「持ち込みでも、応募でも、散々無理だったのに、鶴の一声で連載がもらえました。

ただ、2カ月に1回6ページという、非常にゆっくりなペースの連載でした。

『東京ソレノイド』は、2人組のバンドマンが『バンドやろうぜ!!』つって、ナニやるわけでもなく暴れてるだけのギャグ漫画なんですけど、気合を入れて500枚くらいネーム(下描きの下描き)を描きましたね。

それが29歳か30歳の頃で、やっとデビューできました」

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