むしろ、このたとえを使いますと、中心のほとんど見えないほど微細な核心的部分に「真の哲学」があり、その周辺に広大無辺の「ニセ哲学」というすそ野が広がっている。そして、真の哲学をする以外に哲学をする理由はなく、一方でニセ哲学とは、哲学の外形だけしていて、そのじつまったく哲学ではない代物なのですから、こんなものはしないほうが、少なくとも「哲学」という名のもとにはしないほうがいいのです。
しかし、物騒なことに、あのハーバード大学のマイケル・サンデル教授のように、いろいろな人がまったく哲学とは縁もゆかりもないものを「哲学」と称して全世界にばらまいているのですから、困ります。
では、ホンモノの哲学とは何か? 前回にもちょっと触れましたが、存在とか認識とか自我とか時間とか、いやずっと絞っていくと、「存在」と「認識」だけでいいかもしれない、アリストテレス、いやもっと前から天才哲学者たちが問い続けてきた根源的テーマに関わり続けることです。存在論とも認識論とも格闘していない人が、いかにほかの分野で機転の利いたことを喋っても、それは中身のない金メッキにすぎません。
哲学塾に向いている人とは?
ですから、哲学を真に学ぶとは、「存在」や「認識」に拘泥し続けること、「ある」とは何か? 「ない」とは何か? 「同じ」「違う」とは何か? 「わかる」「わからない」とは何か? こういう単純な問いを発し続け、答え続けることです。
しかし、こんな問いは、個人がどんなに頑張っても、すぐに種切れになってしまう。いや、それ以上に、これらは社会的に受け付けられようもない問いですから(それどころか、無性にイヤがられる問いですから)、会社に勤めながら問い続けるのはなかなか難しい。そこで、ぜひとも信頼できる先達や優秀な仲間が必要なのです。
おわかりでしょうか。今回は(も?)すべて大真面目なことを語りましたが、読者諸賢のなかで、「未来が『ある』とはどういうことだろうか?」とか「私が『いる』という意味がどうしてもわからない」とか「今日の私は昨日の私と『同一』だろうか?」とか「なぜ『ない』という言葉は『ある』のだろうか?」というような疑問が湧き、いや湧くだけではなく、どうしてもこうした問いが気になって仕方ない人は、哲学をするしかありません。
会社に入ってみると、同僚が皆これらの問いに関して何の疑いも抱いていないことに愕然とする。としても、哲学でメシを食うつもりはない。こんな人が哲学塾に向いていますし、事実、哲学塾でカントだ、ヘーゲルだ、ニーチェだ、サルトルだ、と必死になって難解な原典に取り組んでいますが、じつはこうした単純な問いに挑んでいるだけです。
ですが、あらためて思いますが、単純に見えるこれらの問いは、疑いなく最も根源的で最も関心を惹くテーマではないでしょうか。いま「ある」私が、やがて「なく」なってしまう、この不思議さを解明しようというのですから。
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