「哲学的才能」の有無を決める2つの要素 半分は科学、半分は芸術。それが哲学

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 仕事で成功しても、私生活が幸せでも、どうせ死んでしまうのは世の必定。かくも虚しい人生において、哲学は救いになりうるのか――。本連載では、“戦う哲学者”中島氏が私塾「哲学塾 カント」の興味深い日常風景に材を取り、四方八方から哲学の実態を語り尽くす。
(写真:peus / Imasia)

「哲学塾」に参加する人々の大部分は、恐る恐るドアを開き、一瞬そこに立ちつくし、黙って講義を聴いて黙って帰り、そしてその約半分が二度と来なくなります。ですが、前回もお伝えしたように、ごくわずかですが、1回目の講義を聴き、わが意を得たとばかりに「はしゃいで」、あっという間に哲学塾の空間を「自分の空間」にしてしまう人がいる。

その中には、講義終了後にたまに開く呑み会で、自分の「個人的問題」を始めはおずおずと語り出し、私が比較的好意的に捉えると、これまたあっという間に変身し、毎回その「個人的問題」を持ち出し語り続ける人がいる。

哲学塾生に求める「距離感」

彼らには、人生においてずっと語る場が(それほど)与えられなかったのですが、「哲学塾」は何でも語っていい場なのだと了解(誤解)した瞬間に力を得てしまい、しばらく放っておくと、もう手が付けられないほどに「炎上して」しまうのです。こうして、哲学塾にはじっと黙っている人としゃべり続ける人が混在しているのですが、といってこの2類型ばかりではなく、もちろん適切に状況に配慮している塾生も少なくありません。

私が塾生に最も要求しているのは、ひとことで言えば、私との「距離感」です。私は定式的な遠慮や卑下、おべっかやゴマすりが大嫌いですが、だからといって、大股で垣根を跳び越して、何でも思ったことをズケズケ語り、馴れ馴れしくする人が好きなわけではない。同じくらい大嫌いなのです(から、私との付き合い方は意外と難しい)。

以上の前置きをもって、今回は、哲学を志す人にはいったい何が必要なのか、そして何が哲学的思考を妨げるのか、言い換えれば、哲学的才能とは何なのか、を少し堀下げて示してみましょう。

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