穏やかな最期だった。在宅医や藤本らに連絡し、在宅医の死亡確認が終わったのが午前4時頃。その間、純子は藤本から教わっていた看取りの作法通りに、母親の後頭部を左太ももの上に置いて顔を近づけ、ずっと抱きしめていた。
純子の一人息子で、夫の祖父が創業した保育園に勤める暖(だん・30)は駆けつけると、祖母を抱きしめた。事前に純子から看取り士のことを聞いていたせいか、とくに違和感もなく「生前の温もりを感じるね」とささやいた。
純子と息子の気持ちの区切りがつくまで、交互に合計6時間も抱きしめていた。集まった親戚らは亡骸(なきがら)のまわりを囲んだり、手脚に触れたりしながら生前の母親の話に花を咲かせた。私もこんなふうに看取ってほしいという人もいた。母親の背中はずっと温かかったという。
母親には自由人という言葉がふさわしいと純子は語った。

25歳でファッションデザイナーとして仕事を始め、パリコレで作品を発表する機会にも恵まれ、仕事のかたわら65歳を過ぎた頃からシャンソンを習い始めた。発表会では自らデザインし、裁断したドレスを着て歌ったという。
母親について語る娘はどこか誇らしげだった。
消すに消せない「1日でも長く」という執着
純子は打ち明け話をしてくれた。
彼女は看病疲れで8月に寝込んだ。その際に「ママ、生きていてほしいよぉ〜」と、子供みたいにさめざめと一人泣きじゃくった。そのとき自分の心の奥底に潜む執着に、改めて気づかされたという。
6月に母親が下した延命拒否の決断。その後、純子は揺れる気持ちを信頼する医師や息子に明かし、その決断を彼女なりに受け入れたはずだった。
だが、7月に母親が元気を取り戻した後も、純子の心には再び「1日でも長く」が頭をもたげていた。9月に依頼した看取り士の権藤の次の言葉で、それに気づかされた。

「ご自身の最期はお母様が決められます。それが人の尊厳というものです。私たちには旅立つ準備をされている、お母様の手伝いをすることしかできません」
母親の決意と、いのちあるものに宿命づけられた死。その両方に私の執着は反している。歴然とした事実を、純子は目前に突きつけられた気がした。
娘の執着は愛情であり、家族のエゴでもある。思うように意思表示できなくなった母親の決断や尊厳への配慮がそこにはない。
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