死期が近づくと、「亡くなった肉親などの姿を夢で見る」とか、「お迎えが来る」と言われる。看取り士が関わる現場でも、「お迎えがきた」後に「自身の最期は本人が決める」と言われている。多くの現場経験に根ざしたものだ。
涙も喪失感もない看取りと最後の「バイバイ」
6時間の看取りでも、母親のアトリエで行った通夜と葬儀でも、純子は一粒の涙もこぼさなかった。その理由を自分なりに考えてみたと、看取り後の初七日訪問の際に権藤に話した。
「看取り士さんたちに来ていただいた時間が、遺される私たち家族にとってのグリーフケア(肉親の喪失感をいやすこと)になったんじゃないかって。透析はしないことを受け入れてから、私の気持ちは揺れ動きながらも、樹木のように枯れていく母親を見て、触れて、感じることで、心の準備を少しずつ整えていきました」
それでも心の奥底に潜んでいた執着に、権藤の言葉で気づかせてもらえた。一連の反復の中で母親の死を徐々に受け入れ、喪失感もない看取りを終えられた気がすると続けた。亡骸が放つ温もりもじゅうぶんに受けとれた。
「最初の訪問で、私たちはプラスの死生観をご家族に伝えます。死とは旅立つ肉親からいのちのバトンを引きつぎ、その体の温もりを通してエネルギーを受けとることなのです」
日本看取り士会の柴田久美子会長はそう話す。
看取り士は本人や家族の不安や悩みの相談に乗り、家族には事前に看取りの作法の練習もうながす。旅立った後は故人に触れたり抱きしめたりして、家族にエネルギーを受けとってもらい、生前の思い出話を引き出したりもする。
「一連の手順をへて、看取り士が悲しいだけのご臨終観を変えます。結果、阿刀さんも、涙も喪失感もないお看取りができたのではないでしょうか」(柴田)
葬儀の際、純子は母親が発した「れっかのごとくいきる」が遺言だったと思うと話した。権藤らが初めて訪問したときの言葉だ。
「母はアトリエで深夜まで生地の裁断などをこなす、仕事人間でした。女性が家の外で働くのが難しかった時代に、自分の好きなことを仕事にして、まさに『烈火のごとく』生き切りました。私にもその言葉を通して、『熱く生きていきなさい』と伝えてくれたんだと思います」
旅立つ直前、ふいに胸の上に両手をあげて左右に数秒動かしたのも、母親の「バイバイ」だったと純子は思っている。
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