「私がそこで『何かしてほしいことがありますか?』と尋ねると、しばらくしてから、『喉が渇いた』『苦しい』などとつぶやかれました。それを見た純子さんがとても驚かれていて、実は6月に容体が急変して以降、お母様がほとんど話されていなかったことを、私もそのとき知りました」
訪問看護師や介護士もその間、定期的に訪れていたにもかかわらず、だ。
「権藤さんが母の耳元に口を寄せて質問された後で、母の答えをじっと待ってくださったんですね。けっして事務的ではなく、ホスピタリティ—を感じさせる姿勢に、母も『彼女たちなら……』と思ったのかもしれません」(純子)
看取り士との会話をきっかけに、母親は娘と会話したり、少量だが自分の口から食べようとする意欲を束の間取り戻していく。母の生きようとするエネルギーのふたが再び開いた気がしましたと、純子は当日を振り返った。
その後、ベッド横で今後の打ち合わせを3人でしている最中に、母親が突然「れっかのごとくいきる」とつぶやいた。純子が、「ママ、今、何て言ったの?」と尋ねると、母親は再び「れっかのごとくいきる」とくり返した。
純子は以降、それが何を意味するのかを反すうすることになる。
「点滴しない最期」を少しずつ受け入れていく
母親はオーダーメイド中心のファッションデザイナーだった。戦後は稀少だった職業婦人の先がけ。福岡市内の自身のアトリエで84歳まで働き続けた。経営者だった父親は生前、母親の自立した生き方の最大の理解者だった。
延命治療を拒んだ母親の決断を受け入れてからも、純子の気持ちはひそかに揺れ動いた。在宅医からは、容体が急変する危険性があるとも聞かされていた。だから信頼する別の医師や、一人息子にも揺れる心情を打ち明けてもいた。やはり1日でも長く生きてほしかったからだ。
「ですが、祖母が大好きな息子からは、『おばあちゃんの気持ちを大事に考えてあげたほうがいいよ』と言われて、ハッとさせられました。私がしっかりしなきゃいけないって。ですから息子にも支えてもらいましたね」(純子)
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