堀辰雄の風景描写は比類がないほどに美しい。国木田独歩の『武蔵野』から三十数年が過ぎ、日本近代文学の描写の文体はさらに進化を続けた。
アニメ『風立ちぬ』のキャッチフレーズは「生きねば。」だった。これは、小説『風立ちぬ』の有名な一節「風立ちぬ、いざ生きめやも」から採られている。このフレーズはフランスの詩人ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」の一節を訳したものだ。
しかし、この「生きめやも」というのは文法上は普通に解釈すると「生きない」ということになってしまう。本来の原文の意味は「風が立った、さぁ、生きようと試みなければならない」となるはずだ。堀辰雄もそのつもりで書いているのだが美文の筆が走りすぎた。しかし、堀辰雄ほどになると、文法上は間違っていてもなんだか様になっているところがすごい。
ファシズムの跫音がいよいよ近づく中…
アニメ『風立ちぬ』の主人公、実在の人物である堀越二郎と、小説家堀辰雄は名前の類似という連想だけではなく、丸眼鏡の風貌も少し似ている。しかし何より宮崎駿さんが、この小説から強く影響を受けたのも、忍び寄る戦争の影ではなかったか。
表面的な好景気の裏で、ファシズムの跫音がいよいよ近づく中、しかし堀辰雄は、独自の文学世界を切り開いていった。
人の生は、これほどにはかなく、個人では制御不可能だ。それでも私たちは生きなければならない。生きようと試みなければならない。本作には戦争の影はないと書いた。しかし戦場に赴く多くの若者たちがこの小説を読み「生の有限性」と、その中で生きる意味を必死に模索したことは想像に難くない。
かつて死が生活と隣り合わせだった時代、いくつかの「療養文学」と呼べるような作品が生まれた。トーマス・マンの『魔の山』は、その至高のものであるし、志賀直哉の『城の崎にて』もその系譜かもしれない。村上春樹さんの『ノルウェイの森』は、その現代における新しい形と言えようか。
どの作品もまた、生の危うさと、それを実感することから来る、新しい風景の発見、生の喜びが描かれている。『風立ちぬ』は、その中でも珠玉の作品と呼べるだろう。
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