「宮沢賢治」が生前ほとんど評価されなかった背景 堀辰雄の小説『風立ちぬ』についても解説

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この不思議な童話は、多様な解釈を許容する。私は、この作品をフランスで子ども向けの舞台として上演した際、1人の少年が旅を通じてさまざまな人と出会い、そのことによって友人の死を受け入れ成長していく、少年の成長物語として劇化した。

カムパネルラは、いじめっ子のザネリを助けるために溺死する。それは極めて不条理な死だ。夢の中での長い旅を終えて、最終盤、カムパネルラのお父さんはジョバンニに以下のように語りかける。

「もう駄目です。落ちてから45分たちましたから。」
ジョバンニは思わずかけよって博士の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知っていますぼくはカムパネルラといっしょに歩いていたのですと云おうとしましたがもうのどがつまって何とも云えませんでした。すると博士はジョバンニが挨拶に来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見ていましたが、「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今晩はありがとう。」と叮ねいに云いました。
ジョバンニは何も云えずにただおじぎをしました。
「あなたのお父さんはもう帰っていますか。」博士は堅く時計を握ったまままたききました。
「いいえ。」ジョバンニはかすかに頭をふりました。
「どうしたのかなあ。ぼくには一昨日大へん元気な便りがあったんだが。今日あたりもう着くころなんだが。船が遅れたんだな。ジョバンニさん。あした放課後みなさんとうちへ遊びに来てくださいね。」
そう云いながら博士はまた川下の銀河のいっぱいにうつった方へじっと眼を送りました。
ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云えずに博士の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと思うともう一目散に河原を街の方へ走りました。

1920年代中盤は激動の時期だった

親しい者の死を受け入れることは、宇宙を1周、経巡るほどに時間がかかる。それでも私たちは他者の死を受け入れ、明日を生きていかなければならない。

明治、昭和の大津波の際も、おそらく多くの避難民が内陸部の花巻までやってきたことだろう。津波という人の生命を理不尽に脅かす災害が、賢治の作風に無意識の影響を与えていたかもしれない。あるいは、遠い大陸での戦争に、赤紙1枚で連れて行かれる東北の農民たちの不条理も、そこには影を落としていたのかもしれない。

『銀河鉄道の夜』が書かれた1920年代中盤は、賢治にとって最も激動の時期だった。1922年(大正11年)最愛の妹トシが逝去。

1924年、『心象スケツチ 春と修羅』を自費出版。同年『注文の多い料理店』も出版。1926年、花巻農学校を退職して羅須地人協会を設立する。この年の年末、大正天皇危篤の報を受けて混乱する東京に上京。このとき初めて高村光太郎を訪ねた。

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