この不思議な童話は、多様な解釈を許容する。私は、この作品をフランスで子ども向けの舞台として上演した際、1人の少年が旅を通じてさまざまな人と出会い、そのことによって友人の死を受け入れ成長していく、少年の成長物語として劇化した。
カムパネルラは、いじめっ子のザネリを助けるために溺死する。それは極めて不条理な死だ。夢の中での長い旅を終えて、最終盤、カムパネルラのお父さんはジョバンニに以下のように語りかける。
ジョバンニは何も云えずにただおじぎをしました。
1920年代中盤は激動の時期だった
親しい者の死を受け入れることは、宇宙を1周、経巡るほどに時間がかかる。それでも私たちは他者の死を受け入れ、明日を生きていかなければならない。
明治、昭和の大津波の際も、おそらく多くの避難民が内陸部の花巻までやってきたことだろう。津波という人の生命を理不尽に脅かす災害が、賢治の作風に無意識の影響を与えていたかもしれない。あるいは、遠い大陸での戦争に、赤紙1枚で連れて行かれる東北の農民たちの不条理も、そこには影を落としていたのかもしれない。
『銀河鉄道の夜』が書かれた1920年代中盤は、賢治にとって最も激動の時期だった。1922年(大正11年)最愛の妹トシが逝去。
1924年、『心象スケツチ 春と修羅』を自費出版。同年『注文の多い料理店』も出版。1926年、花巻農学校を退職して羅須地人協会を設立する。この年の年末、大正天皇危篤の報を受けて混乱する東京に上京。このとき初めて高村光太郎を訪ねた。
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