西郷隆盛の「西南戦争」実態知るとむなしくなる訳 政府に立ち向かっていく大義が不明瞭すぎる

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そんな状況のなか、自ら相手の居場所に赴いて、西郷の説得に乗り出そうとした人物がいた。大久保利通である。

西南戦争を引き起こす私学校の生徒たちが暴発したとき、大久保はまだ東京にいた。周囲からどれだけ忠告されても、大久保は「西郷は士族の反乱に参加するはずがない」と言い張ったが、やがて西郷の関与が明確になる。岩倉具視に促されて、大久保は2月13日に京に向かうべく出発。関西で事態に対応することになった。

大久保はこの時点でも、一部の過激派の挙動にすぎないとし、担がれた西郷についても「話せばわかる」と考えていたようだ。このときに神戸で会った伊藤博文によると、大久保は自ら鹿児島にわたって、西郷と直談判しようとしていたという。

「会えばなんでもないのだが、会えぬので困る」

しかし、「行けば殺されるかもしれない」という首脳陣の懸念もあり、大久保の派遣は見送られている。このときに、書記官の松平正直は、京に滞在中の大久保を訪ねた。宿泊先で大久保は「いよいよ西郷と別れなければならない」と口にしながら、無念そうにこう言ったという。

「実に遺憾なことだ。しかし、こんなことのありようわけがない。私が今こうして瞑目して西郷のことを考えてみるに、どうしてもこんなことの起こりようがない」

胸にはこれまでのさまざまな思い出が去来したことだろう。「今でも会えばすぐわかるのだ、会えばなんでもないのだが、会えぬので困る」とも口にした。

だが、西郷が2月17日に鹿児島を発つと、その2日後の19日には追討令が政府から出されている。両者の激突は、もはや避けられない事態となった。

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