西南戦争の西郷隆盛軍、庶民を苦しめた「酷い戦略」 戦略次第では有利な流れにすることもできた

✎ 1〜 ✎ 54 ✎ 55 ✎ 56 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
田原坂
西南戦争で最も激しい戦いが繰り広げられた田原坂(写真:つきあかり/PIXTA)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通はどんな人物だったのか。実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第55回は西南戦争における西郷隆盛のずさんな戦略について解説します。
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。
この連載の記事一覧はこちら
<第54回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、重用されるようになる。
久光が朝廷の信用を得ることに成功すると、大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫ったが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、倒幕の決意を固めていく。薩長同盟を結ぶなど、武力による倒幕の準備を着々と進める大久保とその盟友の西郷隆盛に対し、慶喜は起死回生の一策「大政奉還」に打って出たが、トップリーダーとしての限界も露呈。意に反して薩摩藩と対峙することになり、戊辰戦争へと発展した。
その後、西郷は江戸城無血開城を実現。大久保は明治新政府の基礎固めに奔走し、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行した。そして大久保は「岩倉使節団」の一員として、人生初の欧米視察に出かけ、その豊かさに衝撃を受けて帰国する。
ところが、大久保が留守の間、政府は大きく変わっていた。帰国した大久保と西郷は朝鮮への使節派遣をめぐって対立し、西郷が下野。同じく下野した江藤新平は「佐賀の乱」の首謀者となった。大久保は現地に赴き、佐賀の乱を鎮圧する。さらに「台湾出兵」でも粘り強い交渉の末、清から賠償金を得て、琉球を併合。「地租改正」などの大改革を進めていく。
一方、士族たちは大久保への不満を募らせ、西南戦争が勃発する。

大義なき西南戦争を起こした西郷隆盛

「政府に尋ねることあり」(今般政府へ尋問の筋有之)

西南戦争がほかの士族の反乱と異なるのは「政府への尋問」を目的としたことにある。「明治政府が私を暗殺しようとしているというのは本当なのか」。うわさされている暗殺計画の真偽を問いただしたいというのが、西郷隆盛が挙兵した理由である。

倒幕を果たした西郷が、自ら発足に尽力した明治政府に立ち向かう理由としては、明らかに弱い。無理があるといってもよい。

私学校の生徒たちが暴走したため、大義を急ごしらえする必要があったとしても、ほかにやりようがあっただろう。この頃、生活が苦しくなるばかりの明治維新に対する民衆の不満は大きかった。西郷が「大久保が牛耳る政府のあり方を問う!」とぶち上げていれば、西郷軍に呼応する勢力は広がりを見せたに違いない。

だが、西郷は反乱軍の将にはなり切れなかった。その中途半端さが、軍事作戦に表れることとなる。

次ページ山縣有朋が恐れた「3つの進路」
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事