大久保利通「西郷の死をほくそ笑んだ」は大誤解だ 西南戦争で国賊となった西郷の名誉回復に動いた

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大久保利通と西郷隆盛の像
大久保利通(左)と西郷隆盛(右)(左写真:iLand/PIXTA、右写真:koro/PIXTA)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通はどんな人物だったのか。実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第56回は「西南戦争」において、西郷隆盛はどんな動きをしていたのかを解説する。
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<第55回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、重用されるようになる。
久光が朝廷の信用を得ることに成功すると、大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫ったが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、倒幕の決意を固めていく。薩長同盟を結ぶなど、武力による倒幕の準備を着々と進める大久保とその盟友の西郷隆盛に対し、慶喜は起死回生の一策「大政奉還」に打って出たが、トップリーダーとしての限界も露呈。意に反して薩摩藩と対峙することになり、戊辰戦争へと発展した。
その後、西郷は江戸城無血開城を実現。大久保は明治新政府の基礎固めに奔走し、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行した。そして大久保は「岩倉使節団」の一員として、人生初の欧米視察に出かけ、その豊かさに衝撃を受けて帰国する。
ところが、大久保が留守の間、政府は大きく変わっていた。帰国した大久保と西郷は朝鮮への使節派遣をめぐって対立し、西郷が下野。同じく下野した江藤新平は「佐賀の乱」の首謀者となった。大久保は現地に赴き、佐賀の乱を鎮圧する。さらに「台湾出兵」でも粘り強い交渉の末、清から賠償金を得て、琉球を併合。「地租改正」などの大改革を進めていく。
一方、士族たちは大久保への不満を募らせ、西南戦争が勃発するも、その中心となった西郷隆盛は劣勢に立たされる。

戦場に姿を見せない総大将の西郷隆盛

「おいの体は皆に預けもんそ」

明治10(1877)年2月5日に開かれた幹部たちの集会で、西郷隆盛がそう決意を語ったことが、西南戦争の開戦を決定づけた。すでに私学校の生徒たちは、政府の火薬庫を襲撃してしまっている。「もう後戻りはできない」と腹をくくったのだろう。

そして、その言葉どおりに西郷は彼らに「体を預けた」。陸軍少将だった桐野利秋に四番大隊指揮長兼総司令を任せて、作戦の立案と指揮を担わせている。

また、西郷が軍の機密を決めた場合には、桐野に伝える前に、一番大隊長の篠原国幹にまず伝え、次に二番大隊指揮長の村田新八にはかったようだ。西郷は軍議でたびたび「村田はいないか」と口にしたという。よほど信頼していたのだろう。

そうして幹部たちに指揮を任せながら、西郷は西南戦争の総大将でありながらも、ほとんど戦場に姿を現さなかった。直接指揮したのは「和田越の戦い」と最後の「城山の戦い」くらいである。そのため、こんな戯れ歌が民衆の間で流行した。

「西郷隆盛 仏か神か、姿見せずに戦する」

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