大久保利通「西郷の死をほくそ笑んだ」は大誤解だ 西南戦争で国賊となった西郷の名誉回復に動いた

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西郷の周囲には、つねに20人ほどの護衛が付き従っていた。西郷軍が鹿児島を発つ前、かつては親交を深めたイギリスの外交官アーネスト・サトウが西郷を訪ねて面会するも、厳しい監視のもと、表面的な会話しかできなかったという。

幹部たちが絶対に避けたかったのが「西郷が暗殺されること」である。また、戦場から遠ざけることで、西郷が神格化されて、かえって団結力が高まるといった効果も期待していたに違いない。

西郷の求心力が戦略の甘さに

しかし、西南戦争をどう展開していくべきかについて、篠原や桐野はそれほど綿密に考えていなかったようだ。西郷を担いでしまえば、各地で支持者を得ながら、すんなりと中央に進出できる。そう安直に考えていたのかもしれない。

西郷軍が北上して熊本鎮台のある熊本城を囲んだのも「熊本鎮台には薩摩人も多くいるから、戦わずして開城される」と思っていた節がある。篠原など幹部たちは「熊本城は1日で抜ける」と豪語していた。

だが、実際には思わぬ抵抗にあい、北方の田原坂へと戦場を移して、激戦を重ねることとなる。西郷軍は健闘して政府軍を苦しめるも、時間をロスしているうちに、相手には次々と援軍が到着。徐々に戦況が厳しさを増し、西郷軍は九州各地を転々としながら、敗走を余儀なくされる。

あまりにも西郷軍の軍略が乏しいように思うが、「西郷さえ立てばなんとかなる」と周囲に思わせるほどの求心力が、西郷にはあったこともまた事実である。

西南戦争では、明治政府に不満を抱いていた九州各地の士族たちも立ち上がった。そのなかには、中津隊で隊長を務めた増田栄太郎のように、西郷に心酔する者もいた。

西郷軍が鹿児島に退却して、最後の抵抗をしようというときに、増田は「中津隊の役割は済んだ。みな帰れ」と命じながら、自身は鹿児島に同行している。

その理由について、増田は次のように語った。

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