大久保利通「西郷の死をほくそ笑んだ」は大誤解だ 西南戦争で国賊となった西郷の名誉回復に動いた

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「私はここに来て、初めて西郷先生と親しく接することができた。1日先生に接すれば、1日の愛が生じる。3日先生に接すれば、3日の愛が生じる。親愛は日に日に高まっていき、なくなるわけもない。今は、善いも悪いもなく、死生をともにしたい」

西郷のためならば、命を捨ててもいい。そんな士族たちが多くいたことから、「西郷を総大将に据えること」自体が目的化してしまったのだろう。だが、そんな西郷の神通力だけでは、数で勝る政府軍に打ち勝つことは難しかった。

9月24日早朝、政府軍は城山に総攻撃を開始。このとき、西郷隆盛は流れ弾を肩から股にかけて受けてしまう。

城山の岩崎谷でもはや歩くことができなくなった西郷。先鋒隊長の別府晋介に「晋どん、もうここらでよか」というと、その場にどかっと座ったという。そして、別府晋介の介錯によって、自決したとされている(桐野が西郷を射殺したという説もある)。享年50歳だった。

西郷が失われた時点であっけなく終結

西南戦争の発端となった火薬庫襲撃について、大久保は「西郷は関与していない」という情報を信じ切って、岩倉具視にこんなことを言った。

「西郷がいないのであれば、私学校の勢力は担ぎ上げるべき人が誰もいない。蹴散らすことは、蜘蛛の子を散らすようなものと拝察されます」

これに対して、岩倉は「西郷が姿を隠したというならば、天下にとって大幸とはまさにこのこと」と応じている。西郷こそが西南戦争のシンボルであり、失われた時点でこの内戦はあっけなく終結するというのは、大久保の言うとおりであった。

次ページこのあとに続く大久保の有名な言葉
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