西郷隆盛の「西南戦争」実態知るとむなしくなる訳 政府に立ち向かっていく大義が不明瞭すぎる

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「戦争を恐れているならば、早々に相手の言い分をのむことを決めるべきなのに、最後まで自分の主張を崩さずに、どうにもこうにもいかなくなったときに、好機を得ている。不思議な力である。手品のようにトリックがどこかにありそうだと思ってしまう」

困難を跳ねのけていく大久保の勢いは、その実力を誰よりも知るはずの西郷ですら、もはや予測できないほどのものだった。大久保ならば、どんな手を使っても、目的を必ず遂行しようとするはず。

大久保の恐ろしさを知るからこそ、西郷は動いた。自身に降りかかった暗殺計画を理由にして、先手を打つかたちで、政府に対峙することを決意したのである。

戦争ありきの進軍ではなかった

明治10(1877)年2月14日、西郷軍の東上が開始される。15日に大雪に見舞われたため、その2日後の17日にいよいよ西郷が鹿児島を出発。7大隊と砲兵隊2隊が編成され、西郷は篠原国幹や村田新八、そして、桐野利秋らに指揮を任じている。

西郷軍の総数は1万3000人を超えるが、注目したいのは西郷の服装だ。陸軍大将の正装をまとい、上京を目指した。つまり、戦争ありきの進軍ではない。あくまでも陸軍大将として、政府を問いただすのが目的だった。

「政府に尋ねることあり」(今般政府へ尋問の筋有之)

そんな文言から始まる上京届を、西郷は2月7日に鹿児島県令の大山綱良に提出。これが挙兵の宣言となったが、目的はあくまでも太政大臣の三条実美、右大臣の岩倉具視、そして内務卿の大久保に対して、自身の暗殺計画について問いただすことだった。

しかし、あらかじめ、西郷をマークしていた明治政府の対応は素早かった。西郷が出兵すると、ただちに海上を封鎖。西郷は九州を出られなくなくなり、「尋問する」という当初の目的は早々と頓挫している。

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