大河ドラマでは繊細、実際は頑固「源実朝」意外な姿 歌人でもあった鎌倉3代将軍の知られざる実像

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鶴岡八幡宮
鎌倉3代将軍、源実朝が暗殺された鶴岡八幡宮(写真:Yoshitaka/PIXTA)
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。鎌倉3代将軍「源実朝」は、『金槐和歌集』という歌集があり、武家の棟梁・将軍でありながらも、文化人的要素を多分に持ち、最期は鶴岡八幡宮で暗殺される悲劇の人です。
性格は父・源頼朝や兄・源頼家に比べても穏やかと思われていますが、歴史学者の濱田浩一郎氏は「実際はそうではなかった」と言います。実際はどんな人物だったのか。濱田氏が解説します。

地元から帰ってこない側近に激怒

源実朝に仕える近習に東重胤という下総国の武士がいた。この重胤、あるとき、休暇をもらい、地元に帰っていたのだが、何カ月になっても鎌倉に帰ってこない。お気に入りがいない寂しさからか、実朝はわざわざ和歌を重胤に贈って、「早く帰ってこいよ」という意向を示す。

ところが、重胤はいつまで経っても帰ってこない。とうとう、我慢の限界にきた実朝は、重胤に謹慎を言い渡すのだ。一般のイメージの実朝ならば、重胤の行動を許しそうだが、さすがにそこは武家の棟梁。怒るときは怒って、将軍としての威厳を示したといえる。

謹慎を命じられた重胤は焦り、ある人に助けを求める。その人こそ大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時である。義時は重胤に次のようなアドバイスをする。

「お怒りはいつまでも続くというわけではない。また、あなたのような目に遭うのは、宮仕えの習い。歌を詠み、将軍に贈れば、ご機嫌もよくなるだろう」

よいことを聞いたと、さっそく重胤はその場で和歌を詠む。義時はその様子に感じ入り、重胤と共に将軍御所に向かう。重胤は門外で待つことになった。重胤と一緒に入ったならば「許しもえず勝手に入ってきて、けしからん」と激怒されて逆効果と義時は踏んだのだろう。

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