大河ドラマでは繊細、実際は頑固「源実朝」意外な姿 歌人でもあった鎌倉3代将軍の知られざる実像

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実朝が現れたとき、義時は重胤の和歌をそっと御前に置く。そして「重胤は将軍のお怒りに触れ、嘆き悲しんでおりました。悲嘆のあまり、その想いを歌に詠んだのです。重胤は気の毒ではないでしょうか」との言葉を添える。

すると、実朝は重胤の和歌を3度も読み上げたという。よほど気に入ったのであろう。

そして重胤は御前に出ることを許される。重胤に対し、地方(重胤の故郷)の冬の様子、冬景色の眺望、鷹狩り、雪が降った後の朝についてなど、さまざまな質問をしたというから、実朝の怒りは完全に解けていた。

しばらくして、義時は退出するが、重胤は義時の仲介と配慮に手を合わせて喜んだという。「わが子孫、部下としてあなたにお仕えしましょう」とまで言ったと『吾妻鏡』には記されている。重胤が本当にここまで言ったかはわからない。

もし、実朝が聞いたらまた激怒しそうな言葉ではある。この逸話に関しては、重胤の当初の行動に問題があり、実朝の行動(よい和歌を詠めば許す)を評価する声も多いだろう。

では、次はどうだろうか。

京都に戻りたいと言った大江時広に激怒

1218年8月下旬のこと。大江時広(幕府に仕える大江広元の次男)が、朝廷に仕えるため、また京都に戻りたいと言い出した。時広はもともと、蔵人として朝廷に仕えていた人物だ。それが、実朝の左近衛大将任官の御礼参りとして、鎌倉の鶴岡八幡宮へ参拝する先払いを依頼され、急遽、東下していたのだ。「再び、京都へ」という時広の想いは何ら不自然でないであろう。

ところが、その旨を将軍側近(二階堂行村)を通して、実朝に伝えると、実朝はみるみる不機嫌に。「関東に下向したからには、安易に京都に帰りたいといってはならん。時広の心中、不審なり」として激怒するのだ。側近の行村は、頭を垂れ、何も言わず退出。将軍の意向を時広に伝達する。

時広は「私は京都を中心に物事を考えているわけではありません。検非違使(京都の治安維持を担う)になりたいと思い、日頃、努力してきたが、まだ希望を達成されておらず。自分の希望を叶えたならば、また関東に戻り、日夜、将軍にお仕えしましょう」と言うが、行村は重ねて伝えることは難しいとして、その場から去ってしまう。

おそらく、実朝にその旨を伝えると激怒され、自分の評判まで下がってしまうと考えたのだろう。

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