受験に失敗、就職難「稲盛和夫」逆境を覆す力の原点 「経営の神様」の人生は実は挫折の連続だった
1人になった稲盛。もはや自分には、ほかに行くところはないと悟った。それならば、目の前のことやる以外に道はない。退路を断たれ、そう考えた瞬間が、稲盛の人生にとって大きなターニングポイントとなった。
腹をくくった稲盛は、同期が去ってしまった寮に帰ることをやめた。日夜、研究所に泊まり込んで、実験を繰り返すようになる。
われも忘れて仕事に打ち込むなかで、稲盛はふと改めて現場を見回した。すると、そこには、黙々と研究を続ける先輩の研究者たちの姿が目に飛び込んできたという。研究者として自分のレベルが上がったからこそ、見えてきた風景である。
やがて稲盛は入社2年目にして、特磁課の主任へと昇格。フォルステライト磁器を事業化させたことで、社内でも一目置かれる存在となっていく。
マンパワー不足に頭を悩ませながらも、京都の職業安定所で探した人材を連れてきては、自分たちの仕事の意義について、稲盛は熱弁を振るった。
「このセラミックス部品がなければブラウン管はできない。われわれは今、東大でも京大でもできないような高度な研究に従事している。実践なくしてセラミックスの本質はわからない。すばらしい製品を世に送り出そうではないか」
愚痴ばかり言っていた自分から卒業した稲盛。状況を受け入れたことで、多くの仲間を叱咤激励するリーダーへと成長することができた。
挫折や失敗がのちに大きな財産となる
しかし、主任に昇格して3カ月後、稲盛は会社から立ち去ることを決意。現場を軽視する技術部長とどうしても意見が合わず、次のステップに進むことにしたのである。
「それでは会社を辞めます。今日限りで辞めます」
驚いたのは役員たちである。あわてて慰留されたが、稲盛の決意は固かった。1959年、身につけたセラミックの技術を世に問うため、稲盛は8人の仲間と会社を起こす。このベンチャー企業が、のちに「京セラ」として知られるようになる、「京都セラミック」だ。
こうして27歳にして大海に飛び出した稲盛。その後は経営者して幾多の困難にぶつかっているが、どんなときでも稲盛は決して投げ出すことなく、やり遂げている。
失敗だらけの受験に、思うようにいかない就職活動、そして劣悪な環境での社会人スタート……そんな挫折や失敗の中で磨かれた「逆境力」。それこそが稲盛の最大の武器であり、偉業を成し遂げる原動力となった。
(文中敬称略)
【参考文献】
「稲盛和夫のガキの自叙伝」稲盛和夫(日経ビジネス人文庫)
「ど真剣に生きる」稲盛和夫(NHK 出版 生活人新書)
「稲盛和夫と中村天風」皆木和義(プレジデント社)
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