いつも「ゆっくり急ぐ」大久保は、このときも迅速かつ入念な準備をしてから、清国に乗り込んでいる。自分だけの判断で開戦をも決断できるという大権を得たのだ。「全権弁理大臣」に任命された大久保は、陸軍卿の山縣有朋に働きかけ、戦争になった場合に備えて準備を整えている。
あまりの用意周到さに、周囲も大久保が「むしろ開戦に動こうとしているのでは?」と不安になったらしい。伊藤博文から「みんな心配しているんだから、大体の方針でもお話しを願いたい」と要望されている。だが、大久保はこう告げるのみだった。
「私は全権である。全権をもって臨む以上は何人にもあらかじめ相談しない」
結局、伊藤も出発の直前になって、大久保と話したことで、和平の道を目指していることを知ったという。各方面から意見をさしはさむ余地すら与えたくなかったのだろう。
そして、大久保が現地に到着すると、9月14日から会談はスタートする。戦争を避けるためには、できるだけ相手は刺激したくないはず。だが、大久保は出だしから、大国の清に正面からぶつかっていく。
理屈で攻める大久保に揺さぶりをかける清
大久保は交渉にあたって、今回の台湾出兵について、原点に立ち返った。そもそもの発端は、明治4(1871)年に台湾へ漂流した日本人54人が現地人に殺害されたことにある(『「征韓論反対」の大久保利通「台湾には出兵」のなぜ』参照)。であればと、大久保は1回目の会談でひたすらこの一点を問い続けた。
「台湾は貴政府の属地であるかどうかお答えいただきたい」
答えがイエスならば、日本人殺害の責任は清にもある。賠償金を支払ってもらわなければならない。答えがノーならば、日本が台湾に出兵しても、清にとやかく言われる筋合いはない。理屈上はもっともである。
だが、清は「領地が広大なために、国内ですら目が届かないところがある」という理屈で、「台湾で起きたことの責任はとらないが、権利は主張する」という態度をとった。そして、完璧に準備してきた大久保に対して、清は行き当たりばったりの主張を繰り返す。
大国ならではのおごりに加えて、清からすれば、まだ政権が不安定な日本の状況を見透かしていたのだろう。揺さぶりをかけるかのように、清は交渉の打ち切りさえ示唆してきた。
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