「統一教会」が米国に寿司を広めた知られざる経緯 日本人信者たちがいかに寿司企業を拡大したか
共同貿易会によると、1977年から1980年にかけて、南カリフォルニアの寿司屋の数は、わずか39軒から116軒に急増したという。1989年、ワシントン・ポスト紙に掲載されたある寿司職人は、昔はナイフとフォークを要求されたと回想している。今では1日に1000貫は握っており、「寿司ひじ」に苦しんでいるそうだ。
寿司現象は明らかに、社会的区別の感覚、独自の儀式と規則を持つ美食の領域に入るという感覚に依存していた。1981年に『USニューズ&ワールド・レポート』がアトランタの「現地スタイルの仕掛け人」を対象に行った調査では、(ラケットボールや「装飾色としての桃色」と並んで)寿司が「流行」だと宣言している。「ブレックファスト・クラブ」では、モリー・リングウォルドが演じるキャラクターの洗練された雰囲気を象徴するために、寿司のランチが登場したのは有名な話だ。
高級食から大衆食になった寿司
しかし、徐々に、必然的に、寿司は社会に浸透していった。球場の軽食になり(1980年代後半からカリフォルニアのメジャーリーグ球場で提供)、ラップの歌詞にもなった(ビッグ・ダディ・ケイン:「俺はグッチみたいに本物だ、寿司みたいに生だ」)。それは文化外交でもあった(ビル・クリントン「とても気に入っている」)。
1991年の「シンプソンズ」のエピソードで、ホーマーは(大将がエドナ・クラバーペルと車の中でいちゃついていて留守のため)未熟な寿司職人がさばいた致死量の毒入りフグを食べながら、「うーん! ファンフグタスティック」と称賛する。
スプリングフィールドと「シンプソンさん」に受け入れられた寿司は、アメリカ中産階級に広く普及することを予感させるものであった。1995年には、カンザスシティ・スター紙がスーパーマーケットの寿司の登場を報じることになる。
ある意味、単純なことだった。アメリカの寿司職人たちは仕入先を必要としていた。そして、寿司に熱狂しているアメリカの各地には、仕入先となりえる人々が待っていた。「彼らは日本人で、私たちも日本人」。ナガイは回顧する。「彼らが私たちのもとにやってきたのだ」。