「統一教会」が米国に寿司を広めた知られざる経緯 日本人信者たちがいかに寿司企業を拡大したか
ほとんど知られていないことだが、ヤシロの「真の父」は1970年代から1980年代にかけて、巨大なマグロを追いかけながら、海の霊的可能性について説いていた熱心な漁師であった。文は、海こそが難解な神学プロジェクトと垂直統合されたビジネス帝国を含む「海洋摂理」全体の起源だと考えていたのである。ある意味「マグロを捧げものと捉えている」と、文はスピーチで語っている。
ヤシロとほかの「魚のパイオニア」たちが大宴会場で文の話を聞くまでに、統一教会インターナショナルはすでに1000万ドル以上を投じて、アラスカの加工工場を含む、アメリカ本土のすべての海岸で造船所と水産物の事業に始めていた。が、取った魚は売らなければならない。パイオニアたちによると、そこで文が考えたのが、冷蔵車で一軒一軒売り歩き、同時に布教活動も行うことだったという。
全員に100ドル札を渡した
文は全員に100ドル札1枚という資金を渡した。100ドル札1枚である。彼らは全米50州すべてに派遣された。「ノースダコタ州も含めて」とヤシロは笑う(彼はマサチューセッツ州担当になった)。ルイジアナ州を目指したマイク・ツルサキは、文自身から受けた厳しい警告を覚えている。「父がいつ来てもいいように準備しておくんだ。醤油とわさびは常備しておけ」。
ヤシロはボストンに行き、マックス・ナガイという友人も加わって先駆者となった。ナガイは風船を売ってワゴン車を買うための金を稼ぎ、グラスファイバーとベニヤ板で断熱材を作った。「魚を売るのは楽しかった」とヤシロは振り返る。ただ、冷凍のスケトウダラを売るのは大変だったという。
一軒一軒の家を訪ね歩くところから、小売り、卸売りへと移行していった。一方、教会の上層部はヤシロをシカゴに配置転換し、そこで20時間労働を課し、「レインボーフィッシュハウス」という卸売業者の設立に携わらせた。
ヤシロは、精神的な兄弟とともに、粗末なアパートに詰め、時には床で寝たこともあったという。それが彼らの「アメリカンドリーム」でだったとヤシロは言う。その夢が突然、寿司に向かって進み始めたのである。
健康的な食事、テレビドラマ「将軍」、ステータスにこだわる高級志向などの強力な文化の流れが、トヨタに乗り、カシオを身につけた人々が日本のビジネスエリートが食べる生食品を受け入れる方向に作用していたのである。