大久保が帰国したときには、そこまで話は進んでおらず、朝鮮に使節を送るかどうかについて、内閣では議論がなされていた。
大久保はどうしたかといえば、そんな政府を尻目に「われ関せず」という態度を貫いた。参議でもない大久保は議論に参加できない。ならば、いても仕方がないと割り切ったのだろう。暑中休暇をとって関西方面の旅行に出かけてしまう。
いつでも大久保は自分が不利な場面では、決して動かない。政敵として台頭した江藤新平のことも、内心は敵意を燃やしながらも、まだ行動には表さなかった。
あわてずとも、政局は必ず動き出す。大久保の頭にあったのは、岩倉使節団の帰国である。岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文らが帰国すれば、否が応でも状況は変わる。ただ、そのときを見定めていた。
休暇前に西郷と会談した大久保
大久保は休暇で東京を離れる前に、西郷と会談している。西郷のほうは、大久保が帰国する直前、明治6(1873)年5月10日に陸軍大将兼参議に任命された。今や西郷は軍事と行政の両面でトップになったことになる。
両者の会談がどのように行われたのかはわからない。大久保からすれば、留守政府での勝手な行動を許した西郷への怒りは、当然あったことだろう。また、これから国力を高めるときに、朝鮮出兵などを議論している場合ではない。言いたいことは山ほどあった。
しかし、これから大久保が考えている「殖産興業」を実行するには、西郷の突破力が必要だ。西郷と敵対したくはないから、意見を戦わせることはなかったのではなかろうか。
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