その後も、国交を巡る交渉が難航するなかで、釜山にある日本公館をめぐってトラブルが発生。事態を受けて外務省からはこんな方針が掲げられ、正院(内閣)での審議が申請されることとなる。
「居留民保護の名目で陸海軍を派遣して、武力を背景に交渉するのがよいのではないか」
かつて、アメリカのペリーにやられたことを、今度は日本が朝鮮相手にやってやろう、というわけだ。閣議では、板垣退助が外務省案にいち早く賛成を示している。
西郷は「朝鮮政府に礼を尽くした交渉を行うべき」
多勢が板垣に従うように強硬路線に傾くなか、異論を唱えた人物がいる。西郷隆盛である。西郷は次のような意見を述べた。
「まずは使節を派遣し、朝鮮政府に礼を尽くした交渉を行うべきだろう」
これに太政大臣の三条実美も賛同して、最終的には板垣も西郷の意見に賛同。朝鮮への使節派遣が決まっている。
つまり、西郷は朝鮮に出兵しようという「征韓論」をむしろ食い止めたことになる。にもかかわらず、西郷が征韓論者だったとされるのは、板垣に宛てて、こんな手紙を送っているからだ。
「朝鮮側は使節を暴殺するだろうから、開戦の口実となりうる」
この手紙が西郷の本音ならば「征韓論者」だろう。そうではなく、板垣らの強硬論者を説得するための方便ならば、あくまでも平和裏での解決を求めたといえよう。
どちらだったのかは西郷のみぞ知るところだが、一つ確かなことがある。それは、西郷自身が「自分を使節に任命してほしい」と唐突に、かつ、強く望んだということである。
いうまでもなく、本来ならば、西郷がやるべき仕事ではない。三条実美も外務卿の副島種臣を使節にしようと考えていた。副島は特命全権として清にわたり、外交上の成果を上げている。その手腕を買っての人選だ。
それでも西郷は「自分が使節として朝鮮にいく」と言って譲らない。一方で、西郷が朝鮮にわたることに反対する声も上がり、三条実美は悩ましい立場に追い込まれていく。
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