歴史で習う「西郷隆盛は征韓論者」がどうも違う訳 武力を背景にした強硬路線に異論を唱えていた

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何かと予算を減らしてくる大蔵省に激怒した江藤は、大蔵大輔を務める井上馨にこう食ってかかっている。

「あなたは口ではつねに経済のためだというが、経済とは経世済民の道だ。必要に応じて経費を按排(あんばい)するのが経済の本来の目的のはず。あなたのいう経済はただ算盤勘定だけで、真の経済とはいえない」

司法省だけではない。初代文部卿の大木喬任も大蔵省を激しく批判し、井上と対立した。ちなみに大木と江藤は、ともに元佐賀藩士で盟友同士である。明治政府を牛耳る薩長閥への反感があったことは言うまでもない。

スキャンダルを追及して井上を辞職に追い込んだ

弁が立つ江藤は、司法卿という立場で井上のスキャンダルを追及している。井上が不当な証文で尾去沢鉱山を差し押さえたうえに、私物化をたくらんだと指摘。逮捕にまでは至らなかったが、井上を辞職に追い込むことに成功した。

これが大久保の留守中に行われたことである。腹心の井上が追い出されただけでも大久保は不本意だったが、さらに政府高官の人事にまで手がつけられていた。あろうことか、井上を追い詰めた江藤と大木が参議に登用されているのだ。これによって佐賀藩の勢力が一気に拡大する。

「使節団が戻ってくるまでは大きな改革はしない」

欧米へ出発する前に、岩倉使節団と西郷隆盛が率いる留守政府との間で、こんな約束が交わされていたが、完全に踏みにじられることとなった。

さらに大久保を戸惑わせたのは、朝鮮への兵の派遣が検討されていたことである。なぜ、そんな話がでてきたのかといえば、鎖国政策をとる朝鮮政府となかなか国交が結べないことが、その背景にはあった。

明治新政府の樹立にあたって、朝鮮とは新たに国交を結ぶべく何度となく呼びかけてきたが、朝鮮政府は国書の受け取りを拒否。それも無理はないだろう。明治政府はまだ誕生したばかりで、どこまで長続きするかわかったものではない。日本が急速に西洋化を進めていることも、朝鮮政府の警戒心を強めた。

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