4藩が先駆けたことで、ほかの藩も次々と版籍奉還に応じていく。何も拒絶しにくい雰囲気から渋々行ったわけではない。
というのも、この版籍奉還の重要性を理解している者がほとんどいなかった。藩主たちは「いったん天皇に領地と人民が預けられるだけで、また再交付されるだろう」と軽く考えていた節がある。つまり、大名は、徳川時代と同じく実質的な支配権は担保されると思っていたようだ。なかには藩主の意向を聞かずに、在京の重役だけで決めた藩すらあったという。
姫路藩にいたっては、先の4藩よりも早く版籍奉還を願い出ている。率先して提出することで、政府から特別扱いを受けようとしたくらいで、深い考えがあったわけではなかった。
確かに建白では、大名家臣団による領域統治の撤廃までうたわれているわけではない。そんなに大きな変革ではないだろうという、藩主たちの勝手な思い込みに明治新政府はつけこんだ形となった。
262の藩主が版籍奉還を上表
結局、これだけの大改革でありながら、5月までには262の藩主が版籍奉還を上表することになった。旧藩主を新藩知事とし、旧藩の実収の10分の1を家禄と定めたことも、版籍奉還がスムーズに実現した要因の1つである。大久保が、さほど変わらないと印象づけるために、条件づけも工夫したのだろう。
だが、版籍奉還が行われたのち、藩主たちが期待したように、土地や人民が再交付されることはなかった。そして、のしかかったのは重い負担である。
なにしろ、戊辰戦争の戦費は300両かかり、その上、東京に新たな都まで作っている。明治新政府の財政状況は厳しく、それが各藩への要求に反映されていく。藩主たちが、そのことに気づくのはもう少しあとのことだ。
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